苦痛な時間が貴重な時間に。
従来、通勤時間は苦痛意外の何物でもなかった。しかし今では、貴重な「一人の時間」である。妻にも娘にも遮られることなく読書をしたり、日記を書いたりしている。帰宅すれば家事をして娘の世話をして、あとは寝るだけなので。
心配の種は尽きることがない。
我が子に対する心配は尽きることがない。まず妊娠するかどうかで心配する。妊娠できても、つぎは無事出産できるかどうかで。出産しても、つぎは心身健康であるかどうかで。心身健康であっても、病気などしないかで心配する。
幼児期が過ぎても心配の種は尽きない。事故にはあわないか。学校でいじめにあわないか。ちゃんと勉強についていけるのか。
それなりに大きくなっても心配の種は尽きない。就職できるのか、変な奴と結婚することはないか、金銭トラブルに巻き込まれることはないか。
そしていつまでたっても病気、事故、犯罪被害者になる可能性なども心配だ。
このように心配事は尽きないので、ある程度は達観した姿勢で人生と向き合わねばならない。そうなったらそうなったで次善の策を模索し、付与された条件の下で幸福を最大化しようではないかというくらいの気持ちで。
女性の社会進出と育児について
経済的・社会的に余裕があるのならば(=共働き夫婦でないのであれば、男女ともに育休取得が許容される世の中なのであれば)、自分の子どもは、せめて3歳か4歳くらいまでは、自分の(または配偶者の)手で育てたいと思う。残念ながら現実はそうではないので1歳頃から保育園に預ける予定である。
保育園に関して「子どもの社会性を育む」「親の孤育を防ぐ」というメリットから保育園義務化論などもあるようだが、やはり血を分けた子どもなのであるから、他人に任せず自分の手で育てたいという気持ちが強い。
しかし、そのような気持ちに対してネガティブな評価がなされることが多い。ひとつの要因として、女性の社会進出というポリティカルコレクトと相反するところがあるからだろうと推測する。育休延長などについても、そのような観点からの批判があるらしい。
けれども、そのような対立が生じるのは、女性が育児をするという前提があるからだ。別にそうあるべき必要はない(授乳の利便などはさておくとして)。男性が育休をとって、女性が大黒柱として働く、そういった形ならば(保育園に預けず)、家庭で育児をすることと女性の社会進出することとは対立しない。
(もっとも、現実的には男女間の賃金格差や社会的な認識が埋まらない限りは、「専業主夫」というのは絵に描いた餅に過ぎないが。)
「育児と仕事を両立させたい」と願う人が各種公的サービスを利用できるのと同じように、「育児に専念したい」と願う人にも不公平にならないようにすべきなのではないか。なぜか後者は軽視されているように思えてならない。
賢い・馬鹿に年齢は関係ない。
年下の後輩でも賢い奴は賢い。そういう人物の仕事ぶりは見ていてこちらも学ぶところ大である。年長者の先輩でも馬鹿な奴は馬鹿だ。そういう馬鹿者が先輩面して偉そうに説教を垂れてきても全く心に響かない。
賢い・馬鹿の区別に年齢、すなわち生まれた時代は関係ない。これは既に故人となった人物についてもあてはまる。昔の言う人のことだから的を射ているとか、反対に時代遅れで全く役に立たないということはない。過去に生きた人であっても、賢い人の言ったこと、書いたことは勉強になることが多い。
ゆえに、古文の心得はあった方がよい。(もっとも、高校で必修にまでする必要があるかどうかは全く別の議論である。個人的には手ほどき程度はした方がいいと思う。)
結婚・育児による自分の時間の制限について
結婚したり、さらには子どもなどを持つと時間的にまたは金銭的に自分のやりたいことは少なからず制限される。
リソースが有限である以上、仕事や趣味などに従前と同様の力を注ぐことは不可能である。妻子を持つことで仕事に張り合いが出たり密度が濃くなったりするという言説がある。これはある程度的を射ているにしても、家族を持つということは自分に費やせるリソースが減少するという事実は変わらない。
育児と仕事の両立を否定しているのではなく、従前通りではなく、ひと工夫しないと回らなくなるよということ。進歩主義的な言い方をすれば、これまでは大抵の場合女性側が家事育児によって自分の生き方を制限されてきたが、それはおかしなことだ。だから男性も家事育児を負担して、制限されるのが筋だと思う。
兼好法師は子どもが出来てそれを可愛がる女性を「心憂し」と評した(『徒然草』第190段)。兼好の人間観察は確かだしその感想も的確だ。出産前はあんなにおしとやかで輝いていた女性(妻)が、子どもができた途端に周りの目も憚らず育児に専念する、残念やなあ……そう思われるくらいが丁度よいのである。
妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。…(略)…。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。
『徒然草』第190段
社会的弱者になるかもしれないという想像力。
社会的弱者(この上から目線の表現については他に適当な語彙力がないため便宜的に用いる)に対して不寛容なのは、自分もそうなるかもしれないという想像力が欠如しているから。
以前、あちこちの小さな駅などにエレベータが設置されるのを見て過剰投資ではないかという気持ちを抱いたことがあった。しかし、ベビーカーを押す立場になった今はその重要性が理解できる。階段どころか、ちょっとした段差ですら辛い。エレベータやスロープの存在はとてもありがたい。
事故・病気・事件など自助努力ではなんともできない不条理な出来事によって社会的弱者となりうる可能性がある。また自身はそうならなくても、自分の子ども(や身内)がそうなる可能性がある。
社会福祉については、常にそのようなことを頭に入れたうえで考える必要がある。その意味では、我々の頭には依然として無知のヴェールがかけられた状態なのである(既に取り払われていると誤認しているだけで)。