俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

心配するな。理由?国がそう言っているからだ!

厚生労働省は今のところ、新型肺炎は国内では人から人への持続的感染は認められないと説明している。過剰に心配する必要はない。(東京新聞 社説)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020012802000167.html

東京新聞は反権力的な報道をすると認識しているが、新型肺炎に関して「持続的な」ヒトヒト感染はないという大本営発表を垂れ流すとはどういう了見なのだろう。あきらかなまやかしであるのに。(なお、この社説の当日に武漢への渡航歴がない人の感染が確認されている。持続的に、というのは官僚たちの「逃げ」である)

権力側が誤魔化すのは合理性はあるが、反権力を標榜している(と思う)新聞社がかかる言論を垂れ流すのは全く解せない。

三人組に狙われています

というようなメールが母親からくる。

しかも「電気料金を支払えとの手紙が郵便受けに入っていた。三人組の陰謀ではないか」という文面が続いている。

そういう兆候がある。

セオリーでいくと病識を持ってもらうところから始めて投薬ということになるのだろうけれども…。

勝負事は

どんなに些細なことでも油断したり、舐めてかかったりしてはいけない。そこには落とし穴がある。

ここでいう勝負事とは博打に限定されない。仕事、家庭、人間関係その他不確実性が絡む事象すべてのことである。

何事も力配分のいうものはあろうからいつでも全力でかかれと言っているのではない。力配分を考えたうえで、不必要に手を抜いていないかということを言っている。

例えば安牌と思っている営業先への準備、事前のネゴ。

他の仕事が忙しくて手が回らないのは仕方ないだろう。家庭の関係で資料のクオリティが下がるのもやむを得まい。自身の趣味娯楽のために一部資料が用意できないことも場合によってはあり得るだろう。

しかし、意味もなく手を抜くな。漫然と油断はするな。舐めてかかるな。

障がいを持つ子どもを育ててる人のブログに

どうしてそのような辛辣なコメントを書けるのだろうか。

いや、言われずともわかっている。一般的なマナーや規約に従えばコメント者の方が「正しい」ことを。

けれど、その環境に身を置く人に対して、それでもマナーや規約を押し付けるのだろうか。

マナー、規約、法令が正義よりも優先する。いやな世の中だ。(と書くと「悪法も法!」という反論がなされそれに賛同する者が多い。「人の数だけ正義がある!」と真顔で言うものがありそれに同調する者が多い。辟易する。)

育児の不確実性

育児というのは、やればやったぶんだけ対価が得られる系の行為(例えば時間給の労働)とは本質的に異なる。時間等のリソースを消費してもそれに見合う対価が得られないことがある(必死にあやしても泣き止まないことはざらだ)。

だから「努力は必ず成果に結びつく」「頑張ったら必ず誰かが見てくれている」という思考は直ちに捨てるべき。さもないとあまりの理不尽さに絶望することとなる。

消費リソース(努力、時間等)と成果が比例するという幻想を植え付けている教育にも問題がある。

虐待事件の報道とか

接すると胸が張り裂けそうな気持ちになる。子どもができる前は、ここまでの気持ちにはならなかった。

子どもたちが生物的に一人前になるまでは死ねないな、と思う。