俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

会社と顧客の狭間にて――上司による確約の反故。

会社の都合と顧客の要求との間で悩むのが営業の宿命である。

 

(社会的ステータスは全然違うが、これは外交官の立ち位置に似ている。彼らも本国・駐在国の双方からスパイ呼ばわりされることがある。)

 

さて、外交交渉でもなんでもそうだろうが、うちの会社でも営業をかける時は顧客の要求に対し「ここまでなら譲ってもいい」という妥協ライン・条件のようなものを決めておく。これは、事前に上司の確約をとっておく。

 

しかしながら、上司といえども中間管理職であるから、その確認も絶対ではない。会社の都合、役員たちの思惑などによって、後になってから、「その条件ではダメだ」と確認事項を覆されることが頻繁にではないが偶にある。

 

その際、上司は部下たるhalberに告げる。

 

「たしかにその条件までは妥協しても良い、というニュアンスのことはいったが、絶対ではないと留保をつけておいたよな? その条件で良いなんてひとことも言ってないよな? なんでその条件を客に営業かけてるんだ? お前のミスだよな? だからお前の責任でちゃんと処理しとけよ!」

 

しかし、顧客には既に元の条件で契約の内諾を得ているし、向こうもそのつもりで色々と準備を進めている。当然相手方に諸々の経費も発生している。今更、「条件が変わりました。契約は流しましょう」とは言いにくい。怒られる、どころの騒ぎではなかろう。

 

ここで冷酷な上司を詰っても仕方ない。彼もまた所詮は惨めな組織人なのだから。ゆえに取りうる手段は二つ。

 

上司がhalberにそうしたように、halberも顧客に対して冷酷になること。「その条件は絶対とは言いませんでしたよね? 何か勘違いをなされているのでは」で押し通す。散々怒鳴られるが、ひたすら耐える。それでもうまく捌くことができれば、こちらの査定には響かない。上司もえびす顔であろう。

 

しかし、これは顧客に対して申し訳ないうえに(営業でこんな感情を持つのは偽善以外の何者でもないが)、halberが会社に対して甜められる恐れがある。

 

つまり、「アイツになら多少あやふやな段階で条件を降ろしても大丈夫だ。何かあっても自分の責任でなんとかするだろう」と、いい加減な情報を掴まされる可能性が高まる。(一見有能な感じだが、この評価は出世につながらないと思う。せいぜい会社として使い勝手のいい鉄砲玉扱いである。)

 

だから、一時の査定を犠牲にしてでも強気で押し切ることも(時には)必要である。

 

強気というのは、もちろん、自らが所属している組織に対して強気に出るのである。

 

「留保だったかなんだか知りませんが、事実として手続きは進んでいます。ここで顧客に対する約束を反故にすると損賠請求訴訟の可能性があります。営業担当の印象として、その顧客は法的措置を濃厚に匂わせています。ですからここは元通りの条件でなんとかしておかないと、会社に損害が及ぶことになります」と。

 

多少のハッタリも織り交ぜて、会社を、役員をびびらせるのだ。思うに、営業は顧客との駆け引きだけでは不十分であり、顧客に対してするのと同じように会社と駆け引きする必要がある。

 

今期のhalberの査定はボロボロだろうが、しかし本当に理不尽な「確約の反故」をされた時には、このくらい強気に出なければ会社から甜められる。会社から甜められるということは顧客からも甜められるということで、結局のところ大きな取引などは扱えない人間となる。

ぶよを漉し、らくだを飲み込む役人たち――森友問題について思うこと。

森友学園問題について。役人たちの「忖度」が囁かれている。真偽のほどはわからないが、halberも役人たちとの付き合いの多い業界である、彼らの「忖度」には辟易させられることはある。

 

基本的に、日本国における現場の役人たち(国、自治体問わず)は概して優秀であると思っている。彼らに許認可関係の書類を提出すると、実に細かいところまで、かなり入念に、重箱の隅をつつくように審査をする。

 

法治国家としては彼らの姿勢は何一つ間違っていない。

 

しかし、森友のようなことがあると、許認可手続きにおける彼らの二面性にため息をつかざるを得ない。

 

あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。(マタイ23:23)

 

今後、大阪府は私立学校設置の審査手続きを厳格化するという。しかし、これは、結局漉されるぶよの対象が増えるというだけなのではないか。肝心のらくだは、しっかりとシャットアウトされるのだろうか。

どんなに気をつけても揚げ足をとる奴はいるので、時には開き直ることも重要であること。

反社会的勢力を相手にするときの心構えを、しばしば会社からレクチャーされる。そのなかの一つに、「迂闊な一言は絶対に言うな」というものがある。なぜなら彼らはこちらの言葉の隙を狙い常に揚げ足をとる機会を狙っているのだから。ゆえに、発言には慎重であらねばならない、という。

 

これ自体に異論はない。反社会的勢力の手口を書いた本にも、そのようにある。以下は、住吉会最高顧問浜本政吉氏についての記述。

 

よくいわれる浜本の掛けあいの凄みを、元側近はこう証言する。「そりゃ、ひと言ひと言が勝負の世界ですからね。こっちが三分で向こうが七分くらいの有利で来る場面でも、浜本はまず向こうの話をジイッと聞いてます。ひと言間違った言葉を吐いたら、そこでバーンといくんです。そうすると五分五分になります。そのうちに立場が反対になっています。

 

『ヤクザに学ぶ交渉術』(pp13-14)

 

しかし、ここで留意しておきたいのが、どんなに気をつけたとて、彼らは絶対といっていいほどイチャモンをつけてくるのである。なぜなら、浜本政吉氏の記述にあるように、それが作戦だから。些細なことに言いがかりをつけてきて、さもこちらに非があるようにやり込めてくるのが手口。慎重になりすぎて貝になる戦法をとったとしても、彼らは逆に「何でさっき言えとったことが言われへんねんワレ!」「会社の公開資料に書いてあることが、なんで言われへんねんなめとんかボケっ!!」と、こうくる。

 

したがって(無論、迂闊な一言を話さないに限るが、)もしうっかり放言してしまっても、「だから、なんですのん?」くらいの開き直りがほしいところ。

 

反社会的勢力相手に、雑な対応をしてはいけないが、だからといって、こちらに絶対的な無謬性が課せられるわけでなし、イチャモンをつけられた時は開き直ることも大事だと思う。

 

それくらいでないと「間違えてしまった……!」「どうしよう……!」という気持ちの負い目が生じ、彼らはそこにズケズケとつけ込んでくるのである。

 

だから、こう言いたい。開き直ることこそ肝要と。

 

 

ヤクザに学ぶ交渉術 (幻冬舎アウトロー文庫)

ヤクザに学ぶ交渉術 (幻冬舎アウトロー文庫)

 

 

女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直す

かつて学生時代に読んだ太宰治の『人間失格』は結局のところ高等遊民の話であるから、高学歴でも何でもないhalberの心には響くところが少なかった。けれども、いまでも印象に残っている箇所がある。

 

ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。

 

このくだりについては、半分は同意である。女性が甘い物食べると機嫌が直るというところ。しかし、もう半分は不同意である。なぜなら甘い物を食べて機嫌が直るのは女性だけではない。男性も同様だから。

 

そんなことで、夫婦喧嘩にしても、仕事にしても、意思決定を下すときは甘い物を食べた後がよい。血糖値が下がっていると、イライラして正常な判断ができないことが多いから。

 

妻に対して腹をたてたとき、すぐに一言いうのではなくまず腹に甘い物を入れてからそれでもなお言いたいときは実行に移すがいい。大抵の場合、チョコレートの一つでも食べれば気持ちは随分と治まっている。また妻の機嫌が悪いときは努めて甘い物を食べさせるようにするべき。

 

仕事において判断に迷ったとき、とりあえず何か甘い物を口にして、コーヒーでも飲んでから考えるといい。間違えても空きっ腹のときに大事なことを決めるべきではない。また、胆力が求められる打ち合わせに出るときは、予め甘い物を食べておくのがよい。

 

また下世話な話だが、男性の場合は(これは自己の経験を基に話すので「男性の場合は」とする)、性欲が溜まっていても正常な判断ができない。『インテリジェンス人生相談』で佐藤優が推奨していたようにトイレで一本抜いてから(佐藤優曰く若い場合は二回抜くことが大事であるらしい。halberも同意である。)、事に臨むべきである。

 

睡眠不足のときに物事を決めるなというのは広く知られた事実。

 

まとめると三大欲求が満たされていないときに大事な決断をしてはならないということ。

図書館とかいう読書好きを優遇しすぎている公的サービス

 

常日頃から疑問に思うのだが、公立の図書館というのはなかなかあり得ないシステムであると思う。

 

税金で書籍を購入してくれるということのみならず、維持管理費まで負担してくれるのだから。あれだけの冊数の本を維持管理するのは大変である。第一、保管場所の地代だけでも相当なものだろう。それをきちんとインデックスをつけて、スマホで「これ読みたい」と入力すれば大抵はすぐに取り寄せられるように整頓している。これにかかる人件費も官負担。amazonで検索し、ポチるのと同程度の手軽さで、しかも無料。

 

文化なのか慣習なのか知らないが読書というただの趣味にここまで官が肩入れしてくれるのは、本好きのhalberとしてはありがたい限りである。(普通、この手の公的サービスは「助成」という形態をとるのだが、読書については一から十まで官負担、利用者負担がゼロという恐ろしく公平性の原則を無視したサービスだ。将来的には図書館利用者から金をとるようになるのではないか。)

 

去年、図書館で借りた本を仮に購入していたとすると、これはhalberから徴収された市民税の倍ほどにも相当する。市民税と県民税を足して、やっとトントンくらいだろうか。購入費のみでこれである。維持管理費も含めると、完全に(官側に)足が出ている。

 

「本は買って手元に置いとかないと意味がない」と主張する識者もいる。事実、そのように思い込んでいた時期もあって独身時代は可処分所得の多くを書籍購入費に充てたものである。けれども、よっぽど印象に残った書籍は格別、そうでなければ買ってもしばらくたてばブックオフで二束三文で売り払ってしまった。

 

もっとも流行りの小説などは図書館で借りようとしても恐ろしく順番待ちすることになるので、買ったほうがよい。

 

生まれつきの得手・不得手

生まれつきの得手・不得手というものは存在すると考える。環境もあれば、遺伝もあるのだろう。しかしながら、特に義務教育時代、このことを否定する教師のなんと多かったことか。

 

「努力すれば何だってできる!」

 

というのは、一見するとその子の可能性を潰さない配慮であるが、その実とても残酷なことを強いている。人間、生まれながらにして得意なことと不得意なことがある。「遺伝」という概念は、ナチスの優生思想を想起させるので、リベラル的な考えの持ち主ほど(つまり義務教育機関の教師のような人ほど)、「努力すれば何だってできる!」ということになりがちなのではなかろうか。

 

橘玲の仰々しいタイトルの書を読むまでもなく、進化生物学者ドーキンスの著作やミシガン大学の双子の研究などについて書かれた本を読んでいると、人間(に限らず生命というのは)はタブラ・ラサではないのだという思いを強くする。

 

さりとて、優生思想が正しいはずもなく。そもそも「遺伝的にアイツが優れている」などということは我々では判断できるはずがない。それを判断できるのは神か、さもなくば時間である。自然淘汰により適者は生存する、だが、適者がどのような性質なのかは後から振り返らないとわからない。どのような性質がすぐているのかは、今の我々にはわかりようはずもない。

 

ゆえに、多様性が重要だ。

 

日本の文化について述べた古典的名著『菊と刀』で一番好きな部分は、前書きである。そこで、著者のベネディクトは「日本」という西洋とは異なる文化を研究するにあたり、西洋と日本の文化間において差異を認めることは差別ではなく、差異を認めたうえで尊重することが大事なのだという旨のことを述べている。

 

halberもこの考えに全面的に賛成する。

 

思想が先鋭化する昨今、このようなことを言うと(特にリベラルを自認する者から)「文化相対主義者だ」として叩かれかねない世の中になっているが、ポリティカルコレクトネスということはもちろん大前提として念頭に置きつつも、多様性というのは尊重される必要がある。同時に、多様性を毀損せしめるような思想には厳しく対峙すべきであるとも思う。

 

話が広がりすぎたが、結論として、娘を育てるにあたって、「(親である)自分ができたから、お前もできるだろう」とか、「そんな簡単なこともできないのは努力が足りないからだ」というようなことは言わないようにしなければならない。

妻の感謝を目当てに家事・育児をしてはならない。

 決して報われることはないから。

 

仕事の時間を抑えて、家事・育児に力を入れている。それでもやり方が異なると妻は不満を抱くものらしい。料理なども味が気に食わぬとか、洗濯なども干し方がよろしくないとか言って、わざわざ自分でやり直したりする。そして疲弊する。こちらに当たり散らしてくる。

 

こちらの家事・育児スキルが極端に低いのか、と一時自信を失いかけたこともあった。しかし、妻の母(義母)がしばしばうちに来るのだけれども、halberが行った料理や洗濯をやり直している様を見てたいそう驚いていた。「完璧ではないにしても、わざわざやり直しするほどではないでしょう!」と。(第三者に見てもらうというのは大事だ)。

 

つまりはなんでも自分のやり方でないと気が済まないのである。これは会社ではよくある光景である。責任感が強い課長が、うまく部下に仕事を配分できず、挙句どんな細かい仕事も自分で抱えてしまうという光景。そういう人物は最後には仕事量の多さに潰れてしまうか、細かい仕事に追われて重要な仕事を見逃してしまい、多大な損害を出す。

 

これは責任感の強さというよりも、無駄な完璧主義と他人を信じることができないという性分に端を発しているのだと思う。

 

すべての女性がこうだとは思わないが、家事・育児をやっているのに妻からは不満を言われるという声はよく聞く。しかし、何をしても文句を言う人は文句を言うからそう落胆する必要なし。妻からの感謝の言葉や気持ちを当てにして育児・家事をすることが間違っている。

 

「なら一体、何を心の支えに育児・家事をすればいいのか」ということが問題になる。

 

一つの回答としては、「それをする能力があるから」。仕事に加えて家事・育児をする能力があるのならそれをするのはもはや責務である。能力に応じて働くというのは、かの「ゴータ綱領批判」や神から与えられた能力を以って云々を説くプロ倫にも見られる考え方。

 

もう一つの回答としては、「自分の遺伝子を後世に繋いでくれる愛娘(息子)の利益に資するから」というもの。子どもの利益は、自己の利益に繋がる。このあたりはリチャード・ドーキンスの名著『利己的な遺伝子』流の考え方。