俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

結婚・育児による自分の時間の制限について

結婚したり、さらには子どもなどを持つと時間的にまたは金銭的に自分のやりたいことは少なからず制限される。

 

リソースが有限である以上、仕事や趣味などに従前と同様の力を注ぐことは不可能である。妻子を持つことで仕事に張り合いが出たり密度が濃くなったりするという言説がある。これはある程度的を射ているにしても、家族を持つということは自分に費やせるリソースが減少するという事実は変わらない。

 

育児と仕事の両立を否定しているのではなく、従前通りではなく、ひと工夫しないと回らなくなるよということ。進歩主義的な言い方をすれば、これまでは大抵の場合女性側が家事育児によって自分の生き方を制限されてきたが、それはおかしなことだ。だから男性も家事育児を負担して、制限されるのが筋だと思う。

 

兼好法師は子どもが出来てそれを可愛がる女性を「心憂し」と評した(『徒然草』第190段)。兼好の人間観察は確かだしその感想も的確だ。出産前はあんなにおしとやかで輝いていた女性(妻)が、子どもができた途端に周りの目も憚らず育児に専念する、残念やなあ……そう思われるくらいが丁度よいのである。

 

妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。…(略)…。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。

徒然草』第190段

 

徒然草 (ちくま学芸文庫)

徒然草 (ちくま学芸文庫)

 

 

社会的弱者になるかもしれないという想像力。

 

社会的弱者(この上から目線の表現については他に適当な語彙力がないため便宜的に用いる)に対して不寛容なのは、自分もそうなるかもしれないという想像力が欠如しているから。

 

以前、あちこちの小さな駅などにエレベータが設置されるのを見て過剰投資ではないかという気持ちを抱いたことがあった。しかし、ベビーカーを押す立場になった今はその重要性が理解できる。階段どころか、ちょっとした段差ですら辛い。エレベータやスロープの存在はとてもありがたい。

 

事故・病気・事件など自助努力ではなんともできない不条理な出来事によって社会的弱者となりうる可能性がある。また自身はそうならなくても、自分の子ども(や身内)がそうなる可能性がある。

 

社会福祉については、常にそのようなことを頭に入れたうえで考える必要がある。その意味では、我々の頭には依然として無知のヴェールがかけられた状態なのである(既に取り払われていると誤認しているだけで)。

どれほど家事育児しようとも文句を言う人は言う。

出勤前に洗濯掃除をしていけと妻に言われたので、所要時間から逆算して朝五時に掃除をしていたら「うるさい!」と怒られた。

 

会社が終わって晩ごはんの準備をするのはたいてい自分である。晩ごはんを作って、妻子が寝てから皿洗い。しかし、翌日、皿洗いが不十分であったとひどく不機嫌であった。

 

これで妻も働いているのならまだ理解できるが、そうではない。

 

家事を大幅に負担しても感謝されているわけでもない。むしろその逆である。

 

事実、妻が毎日記録している育児ノートには、自分への恨み辛みが大量に書かれている。

 

だから、「妻子に気に入られよう」とか、「家事育児の出来る夫と思われたい」などといった承認欲求をまったく捨て去ることが重要なのだと思う。

 

能力に応じて、という風に考える必要がある。

何かを得られないかわりに別の何かを得る。

ぶりが安く買えたので、ぶり大根を作ろうとしたがあいにく大根の在庫がなかった。大根を買おうとしたがとても高値だったので諦めた(一本250円は手が出せない)。

 

ぶりの照り焼きという手もあったが、ぶりは煮るのが好みだ。仕方なく、レシピを検索してぶりの味噌煮という料理に挑戦してみることにした。

 

ところが、これが簡単で、実にうまかった。ぶり大根は断念せざるを得ず残念であったが、そのおかげでぶりの味噌煮という料理に出会えた。

 

巡り合わせが悪く何かを断念しなくてはならないと落ち込むが、その代わりに何かを得ることができる場合もある。

 

些細なところに人間性は現れる。

今日は自分が敬愛し、内心密かに師とすら仰いでいる元上司(仕事も出来るし、人格者である)と一杯飲む予定であった。しかし、元上司の体調が優れず残念ながら順延となった。

 

元上司から「体調優れず飲みは順延したい」旨のメールを受け取った時、本来であればまず相手の体調を気遣う心が真っ先に出てくるべきところ、「一杯やりながら仕事や人生の悩みを相談したかったな。残念だな」という気持ちが先に来てしまった。

 

もちろん返信のメールには気遣う文言を入れたが、文面の片隅に「体調を気遣うよりも残念だ」という気持ちが滲みでたのは間違いない。人間観察に優れた元上司であるからそのことを見抜かれたにも違いない。

 

なんと器が小さく薄情なのだろうかと自分が嫌になった。それに引き換え、体調が戻ったらまた飲もうと言ってくれた元上司には本当に人間が出来ている。

 

こういう突発的で、なんでもないメールの一文にこそ、人間性というのは現れるものである。

悲観主義と幸運

過度の悲観主義では幸運を活用できない。幸運を受け入れる準備がなされないから。

 

ある程度楽観的でないと、すなわち幸運の訪れを想定して物事を進めておかないと実際に幸運が訪れたときに何も準備ができておらず、それを充分に活用できないことになる。

 

この商談は普通に考えてまとまらないなと思う案件であっても、その後の段取り(少なくとも商談がまとまる心構え)は一応しておくべきである。先日は惜しいことをした。まったく不意をつかれてしまった。

 

幸運がどれだけその人に訪れるかというのはコントロールできない事柄だが、幸運が訪れた際にどれだけ活用できるかというのはコントロールできる事柄である。

他人から必要とされる。

 

他人から必要とされるということは気持ちの良いものである。家族に対する不満不平は尽きることがないが、特に子どもが出来てからというもの、自分の力が必要とされているということが感じられ、張り合いを感じる。結婚・出産して良かったと思える(数少ない)理由のひとつである。

 

ただし、会社で他人から必要とさせるという要求が満たされているのなら、逆に家族は足手まといになるかもしれない。