部下のミスに腹を立てるな。
なぜそのようなミスをするのか、まったく理解に苦しむ。
専門的な知識など不要で、一般常識レベルの作業であるはずなのに。もう少し丁寧に仕事をすれば間違うはずがないのに。気の利いたアルバイトですらそのくらいこなすだろう。そこそこの学歴があって、正社員として雇われた者が、なぜ何回も同じような単純ミスを繰り返すのか。
だが、腹を立ててはいけない。そして、ミスを責め立ててもいけない。それこそ愚者の行為だ。
振り返ってみよ、自分が見習いだった頃のことを。同じミスではなくとも、同じようなミスはしていたはずだ。そのときの上司は、寛大な対応をしてくれたではないか。または、辛く当たる上司の下ではますます萎縮してしまっていたではないか。
ゆえに、いまは寛大な対応をとるべきである。そして、寛大な対応をとっているということすら悟られてはいけない。「間違えたのか。そうか。では修正しておいてくれ」くらいのことを澄まし顔で言うくらいでなければならぬ。
自分にとって理解のできない(ゆえに怒鳴り散らしたくなるような)ミスは、今後の自分の勉強にもなる。自分に理解のできないミスということは、いままで自分が経験しなかっただけのミスであり、人間である以上は同種のミスを犯す可能性があるということ。だから、自分に代わってミスを経験してくれたわけだ。部下に使うべき言葉ではないが、以て他山の石とすべし。
何より大事なのは、自分もまた、上司からそのように思われているということを忘れないようにすることだ。
人生の岐路にたったときに役に立つ学問。
「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」という阪大教授の言葉。
人生の岐路で役に立つという意味では、文学部の学問に限らず、リベラルアーツ系の学問全般にあてはまる。金儲けや実務に直結しなくとも、教養を身につけておくと、人生に迷いが生じたときに役に立つし、大局観、人生観を養うためにも不可欠。
省みると今現在仕事で活用しているのは主に法律と不動産関係の知識であるけれども、いまの自分を形づくっているのは、やはり大学時代に学んだ教養系の講義だと感じる。
専攻は経済学であったが、むしろ励んだのは他学部の社会学関係の講義であった(少人数で『リヴァイアサン』を精読する講義。あれは良かった。この講義を受けて以降、はじめて学問のために自主的に本を読むようになった)。
実務系の知識とリベラルアーツは車の両輪だ。片方だけでいけない。教養だけでは浮世離れした仙人であるし、実務系の知識だけだと〈人生の岐路〉に立たされたときに不安が残る。
ことさら文学部を推すこともないが、教養の重要性はもっと広く知られるべき。
営業成績と運の要素。幸運の存在を無視することは過大評価に繋がる。
営業成績は幸運にも大きく左右される。
同一の能力を持っている者でも、配属された支店によって営業成績は大きく異なる。どう考えても契約をとりやすい地域というのは存在する。配置される上司・部下の能力や相性も重要だが、これも大きな組織では運に類されるべきものだ。
だから、営業成績の浮き沈みに関して短期的な変動があってもさして気にする必要はない。幸運によるものか、己の才覚によるものかわからないから。
そしてまた、過去に好成績を残していたとしても、それは幸運によるものかもしれない。だから、「俺は本来、凄い力を持っているのに、なんでこんなに調子が悪いのだ」というのは早とちりかもしれない。その「調子の悪い状態」こそが本来の才覚かもしれない。
「俺はできる男なのに、なんでこんな上手くいかないんだ」と考えるからしんどくなるのだ。それは全くの思い違いだ。「本来的には自分の力はこんなもんなのだ。いままでがツイていただけだ」、こう考えるべきなのだ。
能力を過大評価することは危険だ。同様に、他人から能力を過大評価されることも危険だ。適正評価を旨とすべし。
自惚れることなく、己の才覚の限界をしっかりと認識しつつ、それでも投げやりにならずに日々改善を重ね、さらに幸運の女神に微笑んで貰えればそれなりの成績がついてくるのである。
幸運の女神に振り向いてくれないときは概ね何をやっても上手くいかない。そういうときは、「投げやりにならないこと」「人に八つ当たりしないこと(特に部下に対して)」「上手くいかないなかでも進めようとすること」が大事だ。肝に命じよ。
娘の高熱
娘が熱を出したため、たまっている仕事を片付けずに早めに帰宅(と、いっても帰宅時間は21時頃なのだが)。
嘔吐等したものの、幸い大事には至らず快方に向かっている。妻にも珍しく感謝された。
業績とか評価のことを考えると、娘の高熱くらいで帰っていてはいかんのだろうけれども、やはりこういう時くらいは帰らないと、「生き物」として大事なものを失ってしまうような気がしたので、強引に帰宅した。
結果的には自分が帰らなくても何とかなったかもしれないが、後悔はしていない。「正しい」かつ「自然な」行いをしたと思っている。
「正しく」「自然な」行いを積み重ねることが、良い人生の秘訣である。
順風満帆に見えていても。
順風満帆の人生に見えていても、人知れず悩みというものは持っているものだ。
特に、子どもや家族のこと。
障がいを抱えていたり、いい歳になっても働かずに実家で引きこもっていたり。色々ある。
仕事がバリバリできる同僚や優秀な旧友と飲んだおり、ふとそのようなことを漏らされると、ひどく混乱してしまう。
「実は子どもが……」
「そうだったのか……」
そのようなことが最近何件か続いている。
「実は子どもが」。そのように言ってくれるということはある程度その人から信頼されているからなのだろうが、そういう時にどのような反応が適切なのか、自分には判断できない。
慰めるべきか、幸せのかたちは多元的であるという話をするべきか、そもそもその話を掘り下げて聞くべきなのか。
いま考えると、もっとよく話を聞くべきだったと反省している。悩みを打ち明けるときに、人が求めているのはアドバイスや助言ではなく、静かに相槌を打って聞いてくれることであるという原則を思い出すべきであった。
混乱して、適切な対応ができなかったこと、後悔している。
傍から見て「何ひとつ不自由なかろう」と思うような人生を歩んでいる人とて、色々あるのだということ。そして勝手に「何ひとつ不自由なかろう」などと決めつけていると、いざ悩みや弱みを打ち明けられたときに、適切な対応がとれないこと。反省したい。
教科書頼みでもいけないが。
教科書とかマニュアルの類は、迷った時ときこそ役に立つ。
好調なときは気の赴くまま仕事をしてれば成果があがる。新人社員でもないのに、いつまでたってもマニュアル頼みでは能力を疑われてしまう。
しかし、スランプに陥ったときは。
そういうときは「今更アホらしいな」と思わずに、基本に忠実に行動することが大事。
自分のやり方に固執せずに、もう一度頭をサラにして教科書通りやってみるしかない。