娘の高熱
娘が熱を出したため、たまっている仕事を片付けずに早めに帰宅(と、いっても帰宅時間は21時頃なのだが)。
嘔吐等したものの、幸い大事には至らず快方に向かっている。妻にも珍しく感謝された。
業績とか評価のことを考えると、娘の高熱くらいで帰っていてはいかんのだろうけれども、やはりこういう時くらいは帰らないと、「生き物」として大事なものを失ってしまうような気がしたので、強引に帰宅した。
結果的には自分が帰らなくても何とかなったかもしれないが、後悔はしていない。「正しい」かつ「自然な」行いをしたと思っている。
「正しく」「自然な」行いを積み重ねることが、良い人生の秘訣である。
順風満帆に見えていても。
順風満帆の人生に見えていても、人知れず悩みというものは持っているものだ。
特に、子どもや家族のこと。
障がいを抱えていたり、いい歳になっても働かずに実家で引きこもっていたり。色々ある。
仕事がバリバリできる同僚や優秀な旧友と飲んだおり、ふとそのようなことを漏らされると、ひどく混乱してしまう。
「実は子どもが……」
「そうだったのか……」
そのようなことが最近何件か続いている。
「実は子どもが」。そのように言ってくれるということはある程度その人から信頼されているからなのだろうが、そういう時にどのような反応が適切なのか、自分には判断できない。
慰めるべきか、幸せのかたちは多元的であるという話をするべきか、そもそもその話を掘り下げて聞くべきなのか。
いま考えると、もっとよく話を聞くべきだったと反省している。悩みを打ち明けるときに、人が求めているのはアドバイスや助言ではなく、静かに相槌を打って聞いてくれることであるという原則を思い出すべきであった。
混乱して、適切な対応ができなかったこと、後悔している。
傍から見て「何ひとつ不自由なかろう」と思うような人生を歩んでいる人とて、色々あるのだということ。そして勝手に「何ひとつ不自由なかろう」などと決めつけていると、いざ悩みや弱みを打ち明けられたときに、適切な対応がとれないこと。反省したい。
教科書頼みでもいけないが。
教科書とかマニュアルの類は、迷った時ときこそ役に立つ。
好調なときは気の赴くまま仕事をしてれば成果があがる。新人社員でもないのに、いつまでたってもマニュアル頼みでは能力を疑われてしまう。
しかし、スランプに陥ったときは。
そういうときは「今更アホらしいな」と思わずに、基本に忠実に行動することが大事。
自分のやり方に固執せずに、もう一度頭をサラにして教科書通りやってみるしかない。
予想外を想定しておくこと。
これは安牌だと思っていた案件が契約に至らなかったり、これは難航すると思っていた案件がすんなりと契約できたりする。
事前の予想・計画は、良くも悪くも外れるものだ。だから、安牌を何件か取れなかったからと言って気落ちする必要はない。それは想定内である。
その埋め合わせとして必ずといって良いほど予想外にラッキーなイベントが発生するから。
恐るべきは一時の不運に気力が萎えてしまって前に進めなくなること。これほど愚かなことはない。
泣き言、というカテゴリ。
このブログは自戒のために思考をまとめる場所として活用してきた。しかし最近は仕事が不調のため思索もままならず、何かを書きかけても泣き言で終わることが多かった。そして結局、うまく自戒とか教訓に繋げることができずに文章を削除するという繰り返し。
ならば、「泣き言」というカテゴリを作ってみようと思う。このカテゴリは、後から自分が読んでも全く役に立たない。無益の極み。いわんや他人が読んでも目の毒。
にもかかわらず、そんな文章をネットにあげるのは、泣き言を文章にして、誰かの目に触れる場に置くというのはそれだけでストレス解消になると思うから。
では、さっそく泣き言を書き連ねる。
(相手のあることとはいえ)営業の成績が思わしくない。大型案件を逃したり、想定外の出来事に見舞われたり、とにかく事前に思い描いていたストーリーとは全然真逆、裏目も裏目に出る。
フォローがいまいちで顧客に叱られたり、大口の機嫌を損ねて支店全体の数字に影響が及びそうだったり。
ああ、つらいなぁ。