子どもの行事で休日が潰れること、有意義也。
子どもが産まれると、とにかくイベントが多い。お七夜、お宮参り、お食い初め…等々。その度に準備やら両親への声掛けやらに追われる。休日であっても休日でないかのようだ。自分が使える自由な時間はどんどん減っていく。
これが悪いことか、と言えばそうではない。独身晩年に感じていたことだが、時間があっても何かをしようと駆り立てられるものがなかったのである。マンガを読むとかニコニコ動画を見るとか、また資格取得の勉強をするとか、やろうと思えばやることはあったが、いずれも「しなければならない」「どうしてもやりたい」というほどのものでもなかったから、やり終えた後に上手く時間を潰せたという以上のものを味わえなかった。
翻って子どものイベントは、終えた後にはなにか達成感があるし、なによりも社会性のある、他人と交われる行為であるというのが大きい。
自分は元来独りが好きなたちだから、放っておくとついつい社会性が失われていく。だから、そうならないためにも、子どものために休日の余暇が潰されるというのはわりと自分のなかでは有意義なことと認識している。
人間はどこかで手を抜く場が必要
人間はどこかで手を抜く場が必要なのだと思っている。仕事と家庭、どちらもフル回転、というのはなかなか難しい。仕事で木偶の坊に見えても家庭に戻ればグッドパパという人物もいる。仕事が抜群にできて会社の利益に貢献しているが、バツを重ねる人もいる。どれも、というのはなかなかない。もし仕事、家庭どちらもエネルギッシュであれば、愛人でもいるのかもしれない。さもなければ、その人の心身のどこかに負担が生じている。
経営者と信仰
あるブログで「経営者はわりと信心深い」という記事を読んだことがある。会社を切り盛りするなかで運とか縁とか人智の及ばない力を次第に認識していくようになるからとかそんな理由だった。
ロバート・キヨサキとドナルド・トランプが書いた本がある。たしかに、両名とも信仰心があるということを書いていた。
もっとも、リチャード・ドーキンスが言うようにアメリカでは無神論者が嫌われるのでポジショントークとしてそのように述べているだけかもしれない。
けれども、経営者というプレッシャーの多い立場、誰かを引っ張っていかなくてはならないというある種の孤独感に苛まれる立場だと、何か心の拠り所を求めるようになるというのはなんとなく理解ができるところである。
ベトナムで私は、人間の力を超えた力の存在を非常に強く信じるようになった。……。ビジネスでも、誠意を尽くして働き、天命とも言うべき使命を果たすために努力すれば、人間を超えた力の助けを借りることができると私は固く信じている。そして、人をだましたり、嘘をついたり、率直さを欠いたりすれば、アメリカ先住民が「偉大なる精霊」と呼んだこの力の助けを失うと信じているし、また、法的にも、倫理的にも、そして道徳的にも、最高の規範に基づいて仕事をするように努めれば、それだけ大きな偉大なる精霊の力が自分のビジネスに宿ると信じている。
(p265 ロバート・キヨサキ)
私がこれまで見てきたところ、どんな形でも何か深く信じるものを持っている人は、そうでない人よりも地に足がついていて、より生産的なようだ。彼らには揺ぎない目的意識があり、簡単にめげない。
(pp271-272 ドナルド・トランプ)
信仰を持つというのは、自分より偉大な力を信じることだ。もちろん私は、人間より偉大な力が存在することを信じている。その気持ちが、どんな状況をも耐え抜く強さを与えてくれる。
(p273 ドナルド・トランプ)
- 作者: ドナルド・トランプ,ロバート・キヨサキ
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将を射んと欲すれば
産後クライシスなどという言葉が作られたように出産後は夫婦間の仲が冷え込むことは多いと思う。
育児中、もし妻との関係改善を図るのであれば、妻自身の機嫌をとりにいくのではなく、子の機嫌をとりにいくべきである。
つまるところ、妻は子の機嫌の良さと正の相関関係にあるので。
では、子の機嫌をとるとはどういうことか。子どもが泣いているときに、あやす技能である。子どもが寝ずに愚図っているときに、寝かしつける技能である。
今般、寝かしつける技術に関して新たな発見があった。寝かしつけについては妻の一歩先を行っている。おかげで、妻から重宝されている。
何よりも、娘が気持ちよく入眠してくれる様を見るのはとても嬉しい。
後日、寝かしつけの技術について備忘録的に記しておこうと思う。無論、一般化できる手法ではなく医学的担保はされていない。
老後、子どもに面倒をみて貰うことを期待することについて
結婚のメリット(結婚しないことのデメリット)としてネット界隈でよく挙がるのが、「老後、誰にも面倒見て貰えずに孤独死してもあいのか(=だから妻帯し、子どもを作って老後の面倒を見てもらうのがよい。)。」という意見だ。
しかし、自分はこれに同意できない。
親の面倒を見るために、子に費やすリソースが減少するから。生物としては、自身の遺伝子を引き継ぐ可能性が減少するのは悲しいことだ。
だから、心構えとしては、老後は子に世話をかけないようにしたく思う。子の扶養期間が過ぎれば双方の家計はそれぞれ独立するのが理想だ。
『日本霊異記』においても、親不孝者の話がある。しかし、そのなかにおいても老親に金を貸すことその返済を求めること自体は非難されていない。
かように、古典にあたっても、親子の経済的独立関係というのは認められているように思う。
毒親について
「誰のおかげで大きくなったと思っているのか」というのは毒親の常套句である。
この言葉の背後には「お前を育ててやったのだから、この借金を肩代わりしろ」とか「これにかかる費用をお前が払え」という意図が潜む。
さらには、明らかに自己の利益のためにする支出であるにも関わらず「お前を育てるために必要な支出だ」と言った嘘(本人は真実だと思い込んでいるようだが)を平気でつく。
儒教精神に毒された第三者も「親孝行の一貫なんだから、それくらいお支払いよ」などといった意見を投げつけてくる。
まったく、家族とりわけ親というのは業が深いものである。抽象的であるが、いつか具体性のある記述をここでするときが来よう。