家庭とか仕事とか趣味とか。
フィールドは沢山持っておいた方がいい。
フィールドが多数あると気がまぎれるから。
フィールド1で不調でも、フィールド2で好調だとそこに主軸を置けばいい。風が吹いてないフィールドでは何をやってもうまくいかないものだ。好調なフィールドにリソースを注ぐべし。
フィールド2で戦っているうちにフィールド1の風向きが変わってきたりする。そうなれば、フィールド1にもリソースを傾ければいい。
好調か不調かは運とタイミング。フィールドが少ないと、不調なものを続けなくてはならない。戦える場が限定されてしまう。
と、いう意味でワークライフバランスという考え方に賛成。
社会に参加しているという実感。
社会に参加しているという実感は大切。
お金を稼ぐとかよりもよっぽど大事だと思う。つまるところ社会に参加しているということが即ち生きるということではないか。
社会への参加と言っても、社交的であったり人と交流している必要は必ずしもない。誰とも交流しなくても、例えばモノを介して社会になんらかの影響を与えていれば、それは社会に参加していることになろう。
ウィキペディアなんかをみると「引きこもりやニートは社会参加が困難になる」と書かれているが、いま一つピンとこない。引きこもりやニートであっても、何らかしらの役割や影響を人間社会に与えていれば、それは社会参加していることになる。(ブログで自身の生活を記し、それを見た人が影響を受けるならば、それはhalberの言うところの社会参加である。)
社会から役割が与えられなかったり、参加しているという実感がないと、人間という動物は途端に弱ってしまう。
不動産、賃貸か購入かを巡る雑な考察。
不動産屋にだまされるな - 「家あまり」時代の売買戦略 (中公新書ラクレ)
- 作者: 山田寛英
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/01/06
- メディア: 新書
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公認会計士の立場としての私の結論から言えば、「買う」ほうが今はトク、である(p44)
その考察過程は以下のとおり。
①賃貸の場合
・無駄金の合計=30年間で3000万円
毎月家賃8万円×12.5か月×30年の計算。条件として2年更新で年間0.5か月分の家賃を含む②購入の場合
・無駄金の合計=30年間で合計951万円利息1%(固定)で3000万円を借り、30年利払いで計算した利息が473万円。条件として不動産取得税や仲介手数料など、買う際の諸費用として1割にあたる300万円。さらに固定資産税と都市計画税が30年分として178万円(3000万円×0.7×1/6×1.7%×30年=178万円)
差は2049万円となった。賃貸のほうが、はるかに無駄金が大きくなることが分かる。なお修繕費は、さらに次の30年後に対して効果が及ぶ支出なのでここでは考慮していない。また「元本3000万円の支払いが入っていない」とおっしゃる方がいるかもしれない。しかし3000万円の現金については、3000万円分の所有権に交換しただけであり、購入者から見て、無駄金と呼ぶべき性質ではないだろう。(p45-46)
いかにも公認会計士らしい計算である。
しかし看過できない点がある。そもそも3000万円(利子抜き)もの負債を負うことに対する流動性低下リスクを軽視している。親の介護や自身の収入低下などによって生活レベルを変えなくてはいけなくなったときに対応できなくなるではないか。
その借金について、〈3000万円分の資産に変わっただけ〉というのが、いかにも公認会計士らしい「オタクの考え」である。(そもそも、3000万円で購入した不動産を、3000万円の現金に換えることがいかに困難なのかは、この本でも説かれている通りではないか。)
不確実性を増す時代、不動産などという流動性の低い資産を持つことのリスクは、意思決定において加味すべきものである。〈3000万円の現金については、3000万円分の所有権に交換しただけ〉などという認識では、ブラックスワンと出くわした際に嘆くことになるだろう。
「必ず誰かが頑張りを見てくれている」というのは人間に対する過度な期待である。
「理不尽な仕事に従事しているときでも、きっと誰かが見てくれている。そして、その頑張りは必ず後で報われる。だから、腐らずに頑張れ」という言説。
かかる言説は、欺瞞とまでは言わない。しかし、人間に対して過度な期待を抱いている。過度な期待をすれば、あとから絶望することは必定である。
人は、そこまで他人のことを気遣えない。(我が身を振り返って、どうだ?部下の陰ながらの努力や働きぶりを網羅的に把握できているのか?)
自分のことですら把握できているかどうか怪しいのに、ましてや他人のことなどは言うまでもない。人の能力的に不可能なのだ。
だから、「誰かが見くれているはず」などという期待は抱かぬほうがよい。見てくれていなかった場合の絶望が大きいから。
しかしながら、人間は誰かに評価されないとやる気の出ない動物だ。他人に評価される可能性もない理不尽な仕事を続けられるほど強くもない。(ゆえに、「誰かが見てくれているはず」という言説が蔓延っているのだろう)
ではどのようにモチベーションを保つべきなのか。
「誰かが見てくれている」とは限らない、しかし、「何かが見てくれている」
宗教色を強めた言い方をすれば「神が見ている」となろうし、日本流に言うと「お天道様が見ている」という感じか。
つまりは、人知を超えた何かが見守っており、帳尻が合うように差配してくれるのである。
そのように考えた方が、うまくいく。
いっとき、あまりにも仕事で理不尽なことばかり続いたので(評価に繋がらない面倒な案件を押しつけられたり)、ノートに逐一記していた。
そして、理不尽なことと同時に、これはツいているなという出来事も記してみた。仕事の枠を超えて、プライベートの案件も書き込んだ。
そうすると、不思議なことに、不運なことと幸運なことはだいたい帳尻が合うようになっていた。(ように思うだけだ。不運・幸運の程度は数値化できない。だが、主観的にでもそう思えてしまうのが不思議だ)
ミスをするのは仕方ないが
「ここの数値が違っているように思うよ?」とやんわり指摘してるのに、指摘事項をろくろく検討もせずに「いや、ミスしてないと思いますけど」的な返事をされると気分が悪くなる。
「じゃあ、この数値はなんなの?」と聞いていくと、結果、やはり数値が違ってることが判明して、こんどは過度に恐縮したり落ち込んだりする。(「ほんと自分はクズですよね…」などと真剣に言われると、こちらが困る)
ミスをするのは仕方ないにしても、指摘された段階で、曖昧な返答をせずにいったん保留するなり確認をするなりすればいいのになと思った。
もっとも「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7:3)である。自分も気をつけなければならない。
気恥ずかしさ
大きなヤマを片付けることができて、それを知ったお偉いさんから「祝勝会するか」みたいなことを言われたけれども、なんとなく気恥ずかしさみたいものを感じて、なにかと理由をつけて断ってしまった。
いや、気恥ずかしさもあるが、幸運の女神にどう思われるかという点も引っかかった。
この案件に関しては、運に恵まれたこともあって、かなり上手い具合に進んだ。
けれども、ここで調子乗ってしまうと、その運が全て吹き飛んでしまうような気がしたのだ。まったく根拠はないが。
こういう時に素直に幹部たちと飲みにいって、役員に名前を売ったりすると出世にも繋がるのだろうけれども、自分の場合は、そういうことをすると逆に幸運の女神に嫌われてしまうような気がしたのだ。
だからお話を断ったわけだけども、なんとなく誰かに話を聞いて欲しいと思ったので、ここに書く。この程度の顕示欲なら、女神も許してくれるはず。
共働き家庭の家事・育児の分担
効率的な分担というものがある。たとえば娘は着替えはママがいいという意向を持っている(ように思う)。他方、お風呂はパパがいいという。
だから、着替え→ママ、お風呂→パパという分担が効率的だと思うが、妻側としてはこれは不満なようで、着替えの50%をママ、残りの50%をパパ…という分担を望ましいと思っている節がある。
効率的な分担と納得感のある分担は異なるものなので注意が必要である。