営業成績と運の要素。幸運の存在を無視することは過大評価に繋がる。
営業成績は幸運にも大きく左右される。
同一の能力を持っている者でも、配属された支店によって営業成績は大きく異なる。どう考えても契約をとりやすい地域というのは存在する。配置される上司・部下の能力や相性も重要だが、これも大きな組織では運に類されるべきものだ。
だから、営業成績の浮き沈みに関して短期的な変動があってもさして気にする必要はない。幸運によるものか、己の才覚によるものかわからないから。
そしてまた、過去に好成績を残していたとしても、それは幸運によるものかもしれない。だから、「俺は本来、凄い力を持っているのに、なんでこんなに調子が悪いのだ」というのは早とちりかもしれない。その「調子の悪い状態」こそが本来の才覚かもしれない。
「俺はできる男なのに、なんでこんな上手くいかないんだ」と考えるからしんどくなるのだ。それは全くの思い違いだ。「本来的には自分の力はこんなもんなのだ。いままでがツイていただけだ」、こう考えるべきなのだ。
能力を過大評価することは危険だ。同様に、他人から能力を過大評価されることも危険だ。適正評価を旨とすべし。
自惚れることなく、己の才覚の限界をしっかりと認識しつつ、それでも投げやりにならずに日々改善を重ね、さらに幸運の女神に微笑んで貰えればそれなりの成績がついてくるのである。
幸運の女神に振り向いてくれないときは概ね何をやっても上手くいかない。そういうときは、「投げやりにならないこと」「人に八つ当たりしないこと(特に部下に対して)」「上手くいかないなかでも進めようとすること」が大事だ。肝に命じよ。
娘の高熱
娘が熱を出したため、たまっている仕事を片付けずに早めに帰宅(と、いっても帰宅時間は21時頃なのだが)。
嘔吐等したものの、幸い大事には至らず快方に向かっている。妻にも珍しく感謝された。
業績とか評価のことを考えると、娘の高熱くらいで帰っていてはいかんのだろうけれども、やはりこういう時くらいは帰らないと、「生き物」として大事なものを失ってしまうような気がしたので、強引に帰宅した。
結果的には自分が帰らなくても何とかなったかもしれないが、後悔はしていない。「正しい」かつ「自然な」行いをしたと思っている。
「正しく」「自然な」行いを積み重ねることが、良い人生の秘訣である。
順風満帆に見えていても。
順風満帆の人生に見えていても、人知れず悩みというものは持っているものだ。
特に、子どもや家族のこと。
障がいを抱えていたり、いい歳になっても働かずに実家で引きこもっていたり。色々ある。
仕事がバリバリできる同僚や優秀な旧友と飲んだおり、ふとそのようなことを漏らされると、ひどく混乱してしまう。
「実は子どもが……」
「そうだったのか……」
そのようなことが最近何件か続いている。
「実は子どもが」。そのように言ってくれるということはある程度その人から信頼されているからなのだろうが、そういう時にどのような反応が適切なのか、自分には判断できない。
慰めるべきか、幸せのかたちは多元的であるという話をするべきか、そもそもその話を掘り下げて聞くべきなのか。
いま考えると、もっとよく話を聞くべきだったと反省している。悩みを打ち明けるときに、人が求めているのはアドバイスや助言ではなく、静かに相槌を打って聞いてくれることであるという原則を思い出すべきであった。
混乱して、適切な対応ができなかったこと、後悔している。
傍から見て「何ひとつ不自由なかろう」と思うような人生を歩んでいる人とて、色々あるのだということ。そして勝手に「何ひとつ不自由なかろう」などと決めつけていると、いざ悩みや弱みを打ち明けられたときに、適切な対応がとれないこと。反省したい。
教科書頼みでもいけないが。
教科書とかマニュアルの類は、迷った時ときこそ役に立つ。
好調なときは気の赴くまま仕事をしてれば成果があがる。新人社員でもないのに、いつまでたってもマニュアル頼みでは能力を疑われてしまう。
しかし、スランプに陥ったときは。
そういうときは「今更アホらしいな」と思わずに、基本に忠実に行動することが大事。
自分のやり方に固執せずに、もう一度頭をサラにして教科書通りやってみるしかない。
予想外を想定しておくこと。
これは安牌だと思っていた案件が契約に至らなかったり、これは難航すると思っていた案件がすんなりと契約できたりする。
事前の予想・計画は、良くも悪くも外れるものだ。だから、安牌を何件か取れなかったからと言って気落ちする必要はない。それは想定内である。
その埋め合わせとして必ずといって良いほど予想外にラッキーなイベントが発生するから。
恐るべきは一時の不運に気力が萎えてしまって前に進めなくなること。これほど愚かなことはない。