俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

失敗が続いた時に悩んだり落ち込んだりすることについて

ミスや失敗が続くと気分が滅入る。気分が滅入ると、悩んだり自己嫌悪に陥ったりして、ついつい行動が鈍くなりがちだ。

 

しかしそんなときこそ、次の成功を掴むべく、あるいは失敗をリカバリするべく、積極的に行動するべきだと思う。

 

思い悩んだり、自己嫌悪しとり、弁解したり、卑下したりする暇があれば、とりあえず行動するべき。

 

思い悩むとか落ち込むとか言うのは状況を改善するうえでなんの足しにもならないばかりか、それは結局のところ自己愛の裏返しである。

 

「自分を大事にして欲しい」「大目に見て欲しい」「嫌われたくない」などという妙な欲があるから、思い悩んだり落ち込んだりする。

 

だから、失敗が続いたときは世間の評判などさておいといて、とりあえず、状況を改善するべく行動することだ。

 

 

 

 

 

決断した過去の自分を責めるなかれ。

ウォール街で活躍したトレーダー、ナシ厶・タレブは著書『まぐれ』において、世間で考えられている以上に成功は偶然によるところが大きい、と説いた。

 

ある方針を決断した場合に、それが成功するか否かは偶然にも左右される。ゆえに、失敗したからといって、その決断を下した自分を悔いる必要は全く無い。決断の内容自体は合理的であったけれども、単に幸運の女神に嫌わわれただけということもある。

 

これは開き直りでもなんでもない。不確実性を伴う行為をするときには、幸運や偶然の要素というのは付き物である。

 

にも関わらず、「お前の決断は、諸々のデータから照らし合わせると不合理なものだった。だから失敗したのだ」とか「もう少しよく考えて決断を下せば、このような結果は避けられたのではないか」とか「準備不足だったのではないか」などという批判をしてくる頓珍漢がいる。

 

全くもって失当だ。

 

後知恵バイアスなどという言葉を持ち出すまでもなく、現在から過去を振り返ればなんだって言える。

 

どの程度リスクをとるか、そのリスクに見合うリターンはあるのか、それはもちろん、最善を尽くして考え尽くすべきだ。

 

けれども、どれほど理詰めで考えても、不確実性は排除できない。考えれば考えるほど「想定されるリスク」が積み上がっていき、結果、「何もしない」などという方向に流れがち。

 

そうして、「ビュリダンのロバ」よろしく致命的な状態に陥ってしまう。

 

これこそが恐るべき事態だ。

 

(但し「決断しないという決断」を下すのと、「何も決められないまま時機を逸する」というのは月とスッポンである)

 

どんなに最善を尽くしても、人間には限界がある。どれほど優秀な人間でも、未来を完全に予見することはできない。いま成功している人間でも、明日には大失敗するかもしれない。

 

たしかに個々人によって才能の差はある。未来を予測する能力に長けた者はいるであろう。しかし、神ではなく人間である以上、どれほど賢くても・どれほど要領がよくても、未来を完全に予見することは不可能。

 

(金融工学ノーベル経済学賞をとった「優秀で」「賢い」人物が経営していたヘッジファンドであっても破綻する。)

 

だから、過去のその時点において、自分の能力の及ぶ限りで考えた末に下した決断を、後から振り返って責めるべきではない。少なくとも、自分で責めるべきではない。(その批判は幸運の女神を知らないマヌケ連中にでも任せておけ。)

 

努力は評価されないが。

努力(=リソースの投入)自体は世間から評価されるものではない。結果をだしてナンボ。しかし、努力と結果は正の相関関係にあることは事実。ゆえに、進捗把握としてリソース投入量を中間目標とするのは的外れではない。

 

日本海軍が戦艦大和を建造する際、工程管理に大変苦労したようだが、リベット(≒クギ)の使用量を目安とすることで進捗を推し量ることができたという。

 

(完成に至るまで、リベット以外にも投入要素が数多あるなかで、敢えてリベットに絞って単純化した点が素晴らしいと思う。このあたりは『戦艦大和誕生』(前間孝則著)に詳しい。)

 

リベットの使用量自体は別に褒められないし、リベットを使用することが目的でもないが、それは結果への道標となる。リベットを使用するほど、完成には近づいていることは間違いない。

 

これと同じことが個人でもあてはまる。

 

なかなか成果が出ない、結果が残せない、という時期は気分が滅入る。当然ながら、努力していても誰も褒めてくれない。結果もでない、だから気分が沈む、働く意欲も喪失する……という悪循環。口の悪い上司からは「努力はエエから結果出せ!」などと罵られて益々嫌になる始末。

 

けれども、こういう局面においてこそ(褒められないから、評価されないからといって)リソースの投入は怠るべきではない。それ自体、賞賛されることではないが、初めに言ったように、リソースの投入と成果物の完成は相関関係にあるから。

 

最終目標を見失わないようにしながらも、心の中の進捗管理・中間目標としてはリソースの投入量(努力)というのは有効な目安。達成感を得ることもできる。(この達成感というのが相当大事なのである。)

 

戦艦建造のような製造業と、企画・営業などの非定型業務では性質が異なる部分はある。

 

しかし、過去の経験に照らし合わせて、平均するとどれだけの投入量でどれだけの成果が算出されるかというのはわかっているはず。案件毎に運や偶然に左右されることはあれども、才覚や気質は生まれ持ったものであり、平均化・単純化すれば概ねの予測はつくので。

どうしようもない計画の実施や営業ノルマを課された場合の心の整理について(将来の見通しにおける幸運の想定)

仕事のことであれ、家庭のことであれ、中長期計画を実行する場合にはある程度の幸運を織り込んでおかないと、立ち行かなくことがある。

 

スケジュール的にあるいは金銭的なリソース的に、順当に考えると「ああ、もう破綻してるがな……」というような計画でも、ひとつかふたつ幸運が訪れるとたちまち復旧できたケースというのは経験上少なくない。(たとえば、通常は長らくかかる役所の審査期間が、たまたま役所の担当者が経験豊富であったために標準事務処理期間を大幅に下回る期間で終わったために、破綻していたと思われる開発計画がなんとかなったこと、など)

 

不運なイベントがしばしば訪れるのと同様に、幸運としか言いようのないラッキーイベントもまたしばしば訪れる。だから、一番陥ってはならないのは、「順当に考えて、この計画はどうにもならない。もう諦めてしまおう」とか「どうせ成らない計画に決まっているのだから」と投げやりになってしまうこと。

 

卑近なものでたとえると、麻雀の配牌だろうか。

 

どうしようもない、ゴミ手としか表現できない配牌であっても、その後のツモでカンチャン・ペンチャンが面白いようにハマっていくこともあるし、使い勝手の悪いオタ風の字牌がカンによってドラになり、さらにそれが暗刻となりたちまち満貫コースということもある。

 

計画策定段階では幸運の存在をアテにしてはならないが、いよいよ計画を実施する段になったときは、いや実施するより他なくなってしまったときには、ある程度の幸運を信じて、投げやりにならずに最大限頑張って進めるのが良い。

体外放出によりストレスは解消されるということ。また、相談の際は言いっぱなしで構わないということ。

社会人になりたての頃、酒の場で、会社の先輩に言われたことがある。

 

「ええかー、ストレスが溜まったときはなぁ、体の中から液体を出したらスッキリするんやぞ!」と。

 

その際、先輩が列挙した液体というのは「涙・汗・精液」であったと記憶している。(下品な話の好きな方だったので3点目に重点が置かれていた)

 

だからストレスが溜まったときは運動して汗をかくなり、感極まって大泣きするなり、マウス片手に自慰行為に励むなどして適宜解消するのがよいという教え。

 

これはあながち間違いではないと思っている。精神的に参った時に運動すると気晴らしになるし、辛い時は(人前でやるのは格好悪いが)泣くのもいいし、どうしようもない衝動に駆られたときは射精するとスッキリする。

 

付け加えるとすれば、体の中から外に出すものは液体に限定されないということ。たとえば「言葉」でも構わない。

 

悩みを抱えている時は、誰かに相談することで随分と気持ちが落ち着く。

 

ここで大事なのは、相談に対する回答はオマケみたいなもの(それどころか蛇足とすら言えるかもしれない)で、悩みを聞いて貰うだけでいいということ。相談の肝は「自分の中の悩みを言語化して外に放出する」ということにあるから。

 

哲学者の國分功一郎氏は相談の本質を〈物質化した観念の体外放出〉と表現した。まさに的を射た表現である。「相談」というと、相手のあることだし、どうしても身構えてしまう(相手のことを意識してしまう)が、観念の体外放出と考えればそのハードルも低くなる。

 

運動をするとき、誰が流した汗の行く末を気にするであろうか。号泣するとき、誰が流した涙の行く末を気にするであろうか。

 

それと同じように、悩みを相談するときも、言葉の行く末を気にかける必要は全くないのである。それよりも、悩みが大きすぎて体外放出できないという事態をこそ、重く見るべきである。

 

悩みを言葉にできない状態というのは、体を動かす気力もない、悲しいけれども泣く気力もないというほどに事態が深刻であるということの表れなのだから。

 

 

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう

 

 

カツオ出汁

独身時代からしばしば料理はしている。

 

長年のhalberにおける料理の基本方針(というほどのたいそうなものでなはないが)として、「出汁をしっかりとる」ということを意識している。

 

実際、自分で料理をするまでは「出汁なんてあってもなくても変わらんやろ。醤油や酒と違って、味に影響を与えるものではない」と思っていたが、なんのなんの、出汁をとるとらないでは完成品の味が全然違う。

 

昆布、椎茸、煮干しなど出汁にも色々あるが、とくにカツオの出汁が好きだ。カツオ出汁の味噌汁ほど旨いものはない。

 

菜の花の沖』という江戸時代後期の商人高田屋嘉兵衛を描いた司馬遼太郎の小説がある。そのなかで、「江戸時代、カツオの出汁というのは贅沢品であって庶民がそうそう口にできるものではなかった」というような記述があった。(庶民はせいぜい「いりこ(煮干し)」の出汁であったらしい)。

 

halberのような庶民でもカツオ出汁が自由に使える時代に生まれたことを感謝しつつ、今日も「だしてんねん」で出汁をとって家族の食事を作る。

 

 

シマヤ だしてんねんガゼット 192g

シマヤ だしてんねんガゼット 192g

 

 

兼好法師と鴨長明

兼好法師の『徒然草』と鴨長明の『方丈記』は、ともに日本三大随筆に数えられている名作だけれども、内容は似て非なるもの。

 

徒然草』からは世間というものに対する「達観」が伝わってくるのに対しては、『方丈記』は斜に構えたことを言いつつも、なんだかんだで浮世に対する未練が感じられる。出世争いに敗れたおじさんが、「出世なんて…」と言いつつも、実はまだ出世に拘っている、そういう印象を受ける。(彼の経歴を見るとそのような文章を書くのも宜なるかな、であるが)

 

だから『徒然草』はいまでも読み返す座右の書の一つであるけれども、『方丈記』は再読する気にならない。会社の飲み会かなどで、散々「「出世なんて…」と言いつつも、実はまだ出世に拘っているおじさん」の話を満腹するくらい聞かされているから。