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俗物による自戒ノート。

特に、ままならぬ仕事、毒親からのストレス、神経質な妻そして愛しい子どもについて。

所有に伴い発生するコストについて。

家庭 日常

halberの母親が毒親たるゆえんの一つは物を捨てられないということにある。片付けを手伝おうとすると烈火の如く怒りだす。曰く「物を大事にしない愚か者だ」、あるいは「思いやりのない冷酷な性格だ」等。

 

ここまでなら毒親とまでは言えないが、まずいのは、増え続ける物を保管するためにマンションやアパートを賃貸していることだ。本人は質素な生活をしているつもりらしいが、かたや賃料が湯水のように垂れ流されている。老後のことなどまるで省みずに。まったく恐ろしいことだ。

 

「物を所有する」ということについて、常に維持管理コストを頭の片隅に置いておかなくてはならない。所有しているだけで空間使用料が発生する。段ボール箱ひと箱あたり、300円/月で預かるというサービスがある。やや極端な考えかもしれないが、これは、段ボールひと箱分の荷物を整理すれば年間3600円のコストを縮減することを意味している。

 

【参考】

ご利用料金|risoco box

http://risoco.jp/box/

「宗教にハマる奴は心が弱い」と言っていた父。

労働 家庭

 

「宗教にハマる奴は心が弱い」

 

というのが口癖であった父親は会社のリストラに心が折れてしまって、halberが学生の頃に失踪した。出張に行くという手書きのメモと、多額の住宅ローンを残して。

 

当時は恨めしく思ったものだが、今となっては咎める気持ちはほとんどない。要するに彼の心が弱かったのである。弱者に鞭打つべきではなかろう。勿論、いまさら戻ってきて欲しいとは微塵も思わない。

 

 

宗教にハマる奴は心が弱いかどうかはさておき、信仰に篤い人はある種の強さを秘めていることは確かである。このことは何も気取ってプロ倫などという古典を引き合いに出さずとも、あの傲岸不遜なトランプが熱心なプレスビテリアンであるということからも分かることである。

 

 

halberはデベロッパーという比較的ギスギスした業界に身をおいているが、職場などにおいても「アイツは心が弱い」と普段必要以上に攻撃的な態度をとっている者ほど、いざ窮地に陥ると心身壊れてしまうのを見るにつけ、人間というものは自分が思っているほど強くないのではないかという感じがしている。

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

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正直であることは必ずしも誠実であることとは限らない。

家庭 育児

 

日中、halberは仕事に行っているわけだが、妻からすると「育児から解放されて羨ましい」くらいの認識でいるのだろう。

 

「仕事をすると心身は疲弊する」「楽しくて仕事をしているわけではない」という基本的なことさえ、育児中の妻に理解させることは困難である。

 

相手の理解を求めようとしても不毛な議論が発生するだけであるから、こっそりと仕事を休んだり直帰しても敢えて寄り道するようにして、自分の時間などを作るように心がけている。もちろん、このことは妻には申告しない。

 

このようにすることで、こちらも気持ちよく家事をしたり育児をすることができるのである。積極的に家事、育児をすることが誠意なのであって、それに比べれば、正直にこちらの心情を吐露したり行動計画を申告することは本質的なことではないと思う。

「35までに1000万。」の人。

労働 家庭 日常 育児

 

掃除術・節約術などに関して参考にしている「35までに1000万。」というブログを久しぶりに読もうとしたところ、移転していた。移転先がはてなブログだったので早速読者登録した。

 

 ◆

 

このブログを初めて見たのは、約10年くらい前だったと思う。halberが就活などで色々と悩んでいた時期である。たしか、公務員試験関係の単語で検索したらヒットしたと記憶している(ブログ主の奥谷せりさんは学校事務志望で勉強記録をつけておられた)。

 

勉強記録はそれはそれで参考になったのだが、やはり目を引いたのはブログのタイトルである。

「35までに1000万。」

とは、あまりにもストレートでそれ自体に面白味がある。もっとも、これだけだと日経ウーマン読んでそうなお金貯めます系三十路女子のブログに過ぎない。そういう系統とは真逆を行くhalberが再度訪問することはなかったと思う。

 

真に興味をひかれたのは「お金を貯める理由」であった。曰く、「自分には心を患っている彼氏がいる。その彼氏を養うために頑張って働いて金を貯めるのだ」と。

 

まず自分のためではなく、誰かのために貯蓄するという利他的行動に感銘を受けた。そしてなにより、三十路女子が働けない彼氏のために頑張るという構図に、それはもう言葉では言い表せないような衝撃を受けた。モニターの前で涙を流したことを克明に覚えている。

 

一般的に節約系の三十路女子というのは利に聡い。一銭のお金も無駄にしないイメージがある。金銭的に極めて合理化された存在だ。有り体に言えばがめつい。がめつい三十路女子が跳梁跋扈するなかで、奥谷さんはニートの彼氏を養うために頑張っている。なんという殊勝な心がけだろう!こんな素晴らしい人がこの世の中にいるのか!……と、当時のhalberは考えた。同時に養われている彼氏のことを羨ましくも思ってしまった。

(こんなアホな考えに至ったのは、就活で数多の民間企業に落とされ無数の役所から不合格通知を貰って、自分自身ちょっとおかしくなっていたのだろう。)

 

その後、何年かに亘って継続的にブログを読んでいて、働けない彼氏のために頑張る奥谷さんを見て偉いなぁ、と思っていた。働けない彼氏よりも働く彼氏とくっついた方が経済合理的な行動だ。だからどこかの時点で奥谷さんは彼氏に愛想を尽かすのかなと思っていたし、そうであらねば世の中おかしいとすら思っていた。功利主義とか効用関数に毒されてすっかり憐れなエコンと成り果てていたhalberには、奥谷さんの行動は不合理なものか、そうでなければとても聖職者めいたひどく高尚なものに写ったのである。

 

けれども、奥谷さんは彼氏と別れるどころかついには結婚までしてしまった。志望していた学校事務に受からなかったため、ラブホでの清掃事務含むトリプルワークという過重労働までして夫を支えるのである。

 

衝動的な恋愛で一時絆されるのならいざ知らず、ここまで継続的に夫のために金銭的に尽くすというのはどういうことだろう。奥谷さんほどの方ならもっと良い結婚相手がナンボでもいるだろうに、と疑問に思ったものだ。どう考えても世間の行動原理に当て嵌まらない。事実、婚活市場ではすこしでも年収の高い男を探すべく三十路女子が日々蠢いているではないか、そんななかで、なぜ……。

という、いま振り返ると幼稚すぎる考えを持っていた。これがたぶん7〜8年前のことだろうか。

 

halberと同様の思いを抱いた人がいたらしく、しかもそれを奥谷さんにぶつけた人がいたらしく、ある日「自分の行動はそんなにおかしいかな」的な記事がアップされていた。

その反証として挙げられていたのは「男女逆ならよくある話ではないか」というものだった。曰く奥谷さんの職場には恐妻家の「カーミットおじさん」という人がいる。奥さんに働かされたりこき使われたりしている。カーミットおじさんに限らず男女逆ならよくある話と違うか……。該当記事を発掘できなかったが概ねそんな内容だったと思う。

 

そこでhalberはまた感銘と衝撃を受けた。なるほど、そうか。そうだよな。と。「蒙きを啓く」の言葉通りそれこそモヤのかかっている脳みそを雷で打たれたような気持ちがした。

 

経済力を持たない配偶者を養うというのはよくある構図である。そして当人はそれで満足しているというのもよくある構図である。経済力の有無のみがその人の魅力を決定するのではない。一緒にいる相手に金銭に限らず何かを与えることができて、相手がそれに価値を感ずるならば、それはそれでありやないか。……など。

 

言葉にすれば当たり前だけれども、社会学の本を手に取れば当たり前のように書いてあることだけれども、ともかくも、halberはそれらの概念を奥谷さんのそのエントリを読んだ瞬間に、それらの概念を血肉とした。

 

 ◆

 

先日、ベビーベッドで寝ている娘を眺めていると、妻が「将来、この子が生活力のないニートに惚れたらイヤやなぁ」と冗談めかして呟いた。

 

「この子がその相手とおって幸せなんやったら、それでエエやんか」との反論が喉元まで出かかったが、揉め事になるのも避けたいので「せやなぁ」と相槌を打っておいた。

本を買う金がないなら飲み会を我慢すりゃいいじゃん図書館で借りて読むなんてナンセンスでしょとかいう論調。

 

本は知性を磨くために大事なものだから是非とも買って読むべきである、という意見をしばしば見かける。本に線を引いたり、メモを書き込んだりして汚しながら読むと理解や思索が深まるというのが主な理由である。

 

それ自体には異論はない。けれども、世間の俗物サラリーマンは金がないのである。少なくともhalberにはない。専門書はおろけ文庫一冊買うにも真剣に悩んでしまう。

 

「本を買う金がない」というと、識者は飲み会を一回我慢すれば新書5冊は買えるだの服を買うのを我慢すればよいだのと主張する。

 

だがこれは世間を全然実態をわかっていない主張だと言わざるを得ない。

 

俗物サラリーマンにとっては飲み会も大事であるし、それなりに身奇麗にするのも大事なことなのだ。社会性の維持というのは、社会人の根幹部分である。我々は象牙の塔の住人ではない。小汚い格好をしていてはならぬと福澤諭吉翁も述べている。

 

──だからね、とにかくまず買うということを前提にしないと、少なくとも読書というタームズにおいては実り多いものは得られない。…(略)…。たしかにそれは本を買うのは安くないかもしれないですよ。最近は文庫本でも一冊五百円ぐらいするかもしれない。だけど、そうはいうけどね、「じゃあ、あなたが一日に吸うたばこいくらですか?二百五十円?二日やめれば文庫本が一冊買えるじゃないですか。そこでゴクゴク飲んでいるビールいくらですか?三百五十円?薄い文庫本なら一冊買えますよ」。酒も飲まない、たばこも吸わない私にとっては、こういうことなんです。

(p139)

 

そういうことをいうと、「先生なんかは経済的にお困りじゃないからそんなことがいえるので、私たち庶民はとてもとても」なんていってくる人もいます。特に主婦にそういう人が多い。そういう人たちに対して私はいいたいんです。「あなたはビール飲みませんか。たばこ吸いませんか」と。それから「一着服買うのを我慢したらね、十冊、本が買えますよ」とね。

(pp142-143)

 

主婦でなくてもそう思う。たまたま今読んでいる本が林望氏のものだったので引用させて貰ったが、同様の意見を書き連ねた本は枚挙に暇がない(佐藤優氏とか)。

 

もちろん、本の書き手(本を売る者)としてのポジショントークもあるのだろうが、彼らは真剣にこう思っているのだろう。こうして「知識人」と自分の置かれた俗世界の隔絶・分断を意識してしまうところに繋がる。

 

この手の人は、なぜか図書館の利用にも否定的である。

 

もしビールやたばこを読みながら図書館で借りて本を読む人があったらば、ビールやたばこはやめて本を買って読みなさい。…(略)…。図書館というものは、基本的には、辞典とか参考文献とか、調べものをする場所だと思います。だから本来は、ああいうところで娯楽のための読書なんていうものをサポートする必要はないと思うんです。(p144)

 

一応、著者の名誉のために断っておくと、「図書館で借りて面白かった本は買って手元に置いておこうね」という意見も述べている。halberはその意見に全面的同意する。にも関わらず、後段でこのような論調の文章が出てくるということは、本心図書館に対してどのように思っているかは推して知るべしであろう。

 

出版されたのが二十年前であるから、まだまだ日本という国家自体にも国民一人ひとりにも経済的余裕があった時代だからこその意見かもしれない。けれども、もはやそんな経済的余裕や社会的な寛容性が失われつつあるいま、日々の糧を気にせずに(あるいは日々の糧を得るための投資(飲み会だって、サラリーマンにとっては重要な社交手段である場合がある)を削って)書籍を購入し、読書に耽ることができる余裕のある人がどれだけいよう。(ここで、「自分はそうだ」と言い切れる人の才覚と環境を羨ましく思う)。

 

最後に、halberはこの本を図書館で借りて読んだ。敢えて書店で買い直そうとは思わなかった。余計な出費を抑制し、なおかつ有益な読書時間を与えてくれた地元の公立図書館には本当に感謝している。

 

 

知性の磨きかた (PHP新書)

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田舎のほうが人口密度高い。

日常

施設が限定されているから。

 

車で一時間かけてイオンモールにたどり着けば、大混雑だったというのはよくある話。もよりのスターバックス(これも車で1時間)には人気らーめん店の如く行列ができていたり。

 

こういう意味で東京などは人口密度が小さく、例えば大型書店などでも落ち着いて本を物色できる。

(田舎では町の小さな古びた本屋で満足するか、イオンモール内にある混雑した紀伊国屋で我慢しなくてはならない)

子どもの行事で休日が潰れること、有意義也。

家庭 育児

 

子どもが産まれると、とにかくイベントが多い。お七夜、お宮参り、お食い初め…等々。その度に準備やら両親への声掛けやらに追われる。休日であっても休日でないかのようだ。自分が使える自由な時間はどんどん減っていく。

 

これが悪いことか、と言えばそうではない。独身晩年に感じていたことだが、時間があっても何かをしようと駆り立てられるものがなかったのである。マンガを読むとかニコニコ動画を見るとか、また資格取得の勉強をするとか、やろうと思えばやることはあったが、いずれも「しなければならない」「どうしてもやりたい」というほどのものでもなかったから、やり終えた後に上手く時間を潰せたという以上のものを味わえなかった。

 

翻って子どものイベントは、終えた後にはなにか達成感があるし、なによりも社会性のある、他人と交われる行為であるというのが大きい。

 

自分は元来独りが好きなたちだから、放っておくとついつい社会性が失われていく。だから、そうならないためにも、子どものために休日の余暇が潰されるというのはわりと自分のなかでは有意義なことと認識している。