何が起こるかわからない。
10年5月、優希ちゃんを産んだ瞬間、希佳さんは誓った。「一生、ママが守っていくから。幸せにするから」。夫婦にとって初めての子ども。優希ちゃんは優しく賢い子に育ち、大きな病気もせず毎日元気に幼稚園に通っていた。
異変が起きたのは14年10月。嘔吐(おうと)や顔のむくみが数日続いた。風邪かと思い、岐阜市内のかかりつけ医に連れていくと、市民病院に行くように言われた。市民病院では「県立病院に」。検査を終えた医師は、夫婦にこう告げた。
「特発性拡張型心筋症です。今晩が山場かもしれません」
(朝日新聞)
このような記事を読むと、本当に何が起こるかわからないと思う。電車の中にもかかわらず、胸がつまってしまう。
寂しい老後を迎えないための結婚。
「妻子のいない老後は寂しいぞ!」
「だから○○君も早く結婚しろ!」
結婚のメリットとして「寂しい老後をおくらないように」ということを挙げる人がいるが(特に男性側のメリットとして)、それはどうか。
介護施設に預けられて、妻子は滅多に会いに来ないかもしれない。子や孫は東京に出てしまって、結局のところ仲の良くない妻と二人きりかもしれない(しかも妻は要介護とか)。
煩わしい限りではないか。これなら独身貴族を貫いたほうがマシだったのでは?
そんな事例を、自分は幾つも幾つも知っている。だから、結婚のメリットとして老後の云々を語るレスを見るたびに、違和感を覚えるのである。
子の成長。
自分のリソースの大部分を注いでも惜しくない。それほど我が子の健やかな成長というものは嬉しい。
元来、子供が嫌いというよりも苦手で、親戚の集まりなとで子供の相手をするときなどは苦痛以外の何物でもなかった。
それが我が子はこれほどまでにかわいく思えるのだから不思議なものだ。
仕事に関して、褒められて喜んでいてはいけない。
褒められたら嬉しいのは人間の性である。しかしながら、こと仕事に関しては、それにできる限り抗うべきである。
なぜなら、褒められて嬉しいということは、自分の評価を他人に依存しているわけだ。だから、その人があなたを貶せば、気分は落ち込むというわけ。
他人の目を気にするな、というわけではない。傍若無人ではならない。けれども、根拠ももって喜ぶべきだし、根拠をもって悲しむべきだ。その感情を、他人に任せきりにしてはいけない。
他人に褒められても納得いく仕事ができなければ喜ぶべきでないし、他人から貶されても納得いく仕事ができたのなら喜ぶべきだ。
心の拠り所を集中しすぎてはならない。
心の拠り所というのは複数持つのが望ましい。可能であれば無根拠・無実態のものが望ましい。
(ひろゆきの言う「根拠のない自信」というのはまさしく慧眼であると思う。
自信とか、心の拠り所というのは根拠がなくてよい。実態がなくてもよい。不合理であればあるほど強い。
逆にその対象が具体的であればあるほど脆さは増す。
たとえば、「可愛い娘がいるから辛い仕事も頑張れる」という人は、娘に何かあったらどうするのか。会社の先輩に、子どものことで気を病んでしまった人がいる。
ワークライフバランスということが提唱されるが、家族に心の比重を置きすぎるのもまたリスクを伴う行為だ。
では、友人に心の拠り所を求めるか?それもまた現実的ではない話だ。
では、出世に心の拠り所を求めるか?出世競争に敗れれば、その時はすべてが崩れ去る。
人とか金とか学歴とかそういったものは弱い。逆に、不可視の信念や無根拠な自信、あるいは非科学的な神(または無神論という信念)、こういったものは強い。
会社に尽くす気持ち、家族を愛する気持ち、豊になりたいという向上心、こういったものも大事であるが、最後の一線に置くべきものではないように思う。