子の成長。
自分のリソースの大部分を注いでも惜しくない。それほど我が子の健やかな成長というものは嬉しい。
元来、子供が嫌いというよりも苦手で、親戚の集まりなとで子供の相手をするときなどは苦痛以外の何物でもなかった。
それが我が子はこれほどまでにかわいく思えるのだから不思議なものだ。
仕事に関して、褒められて喜んでいてはいけない。
褒められたら嬉しいのは人間の性である。しかしながら、こと仕事に関しては、それにできる限り抗うべきである。
なぜなら、褒められて嬉しいということは、自分の評価を他人に依存しているわけだ。だから、その人があなたを貶せば、気分は落ち込むというわけ。
他人の目を気にするな、というわけではない。傍若無人ではならない。けれども、根拠ももって喜ぶべきだし、根拠をもって悲しむべきだ。その感情を、他人に任せきりにしてはいけない。
他人に褒められても納得いく仕事ができなければ喜ぶべきでないし、他人から貶されても納得いく仕事ができたのなら喜ぶべきだ。
心の拠り所を集中しすぎてはならない。
心の拠り所というのは複数持つのが望ましい。可能であれば無根拠・無実態のものが望ましい。
(ひろゆきの言う「根拠のない自信」というのはまさしく慧眼であると思う。
自信とか、心の拠り所というのは根拠がなくてよい。実態がなくてもよい。不合理であればあるほど強い。
逆にその対象が具体的であればあるほど脆さは増す。
たとえば、「可愛い娘がいるから辛い仕事も頑張れる」という人は、娘に何かあったらどうするのか。会社の先輩に、子どものことで気を病んでしまった人がいる。
ワークライフバランスということが提唱されるが、家族に心の比重を置きすぎるのもまたリスクを伴う行為だ。
では、友人に心の拠り所を求めるか?それもまた現実的ではない話だ。
では、出世に心の拠り所を求めるか?出世競争に敗れれば、その時はすべてが崩れ去る。
人とか金とか学歴とかそういったものは弱い。逆に、不可視の信念や無根拠な自信、あるいは非科学的な神(または無神論という信念)、こういったものは強い。
会社に尽くす気持ち、家族を愛する気持ち、豊になりたいという向上心、こういったものも大事であるが、最後の一線に置くべきものではないように思う。
仕事の悩みは家庭の悩みにより束の間忘れ去ることができる。逆もまた然りである。
ワークライフバランスの真髄はここにある。
仕事で追い込まれている時は家庭内の不和を忘れ去ることができる。家庭内のことで頭を抱えているときは仕事上の悩みを忘れ去ることができる。
悩みは、別の悩みによってしか紛らわすことができないのではないか。
では仕事の悩みもなく家庭の悩みもなく、さらに経済的な悩みもないと仮定しよう。悩みがないのが一番ではないのなという当然の疑問。
自身の経験に照らすと(大学生時代がそんな感じに近かった)、人間身近な悩みがなくなると逃れ得ない根源的な悩みについて考えるようになる。どんなに金持ちでも、どんなに優秀でも逃れることのできない「死ぬこと」に対する悩みを考えだす。禄なことにならない。
(だから逆に、「死」とかそういうことを突き詰めて考えるためには、仕事とか家庭とか、そういう卑近な悩みがないほうが良い)
まず手と足を動かすこと。
手と足を動かすといい。頭は最初にちょっと動かして、あとは手と足だ。本当に要領の良い人間なら頭を動かして最短経路で体を動かせばいいと思うが、自分も含めてそうではない人間のほうが多数派だと思う。
だから、何をすべきなのかわからない・何かを為せなくて不安だというときは、もう頭で考えるのをやめて兎に角、手と足を動かせ。
手と足を動かすとそのうち進めなくなるから、そうなったらまたちょっと考えて、そしてまた手と足を動かせ。
最短経路や効率ばかりをさかしらに主張して挙句動けなくなったら意味ないじゃないか。みんながみんなホリエモンのように賢くはないんだ。要領とか、そういうのはさておいといもまず動かないといけない。
幸運の女神は遅巧よりも拙速を好む。
不完全な戦力・準備
不完全な戦力・不十分な準備で戦わねばならないもどかしさ。あと少し時間があれば、あと少し人手があれば、もっとマシなカタチにできるのだが。
しかし与えられたモノでなんとかやり繰りするしかない。弱音を聞きたい上司などはいない。
もっとも、ノルマのために「なんとかしなければならない」という意識では身がもたない。ゆえに「なるようになる」というくらいの気持ちでいくのがよい。