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俗物による自戒ノート。

特に、ままならぬ仕事、毒親からのストレス、神経質な妻そして愛しい子どもについて。

どうしようもない計画の実施や営業ノルマを課された場合の心の整理について(将来の見通しにおける幸運の想定)

仕事のことであれ、家庭のことであれ、中長期計画を実行する場合にはある程度の幸運を織り込んでおかないと、立ち行かなくことがある。

 

スケジュール的にあるいは金銭的なリソース的に、順当に考えると「ああ、もう破綻してるがな……」というような計画でも、ひとつかふたつ幸運が訪れるとたちまち復旧できたケースというのは経験上少なくない。(たとえば、通常は長らくかかる役所の審査期間が、たまたま役所の担当者が経験豊富であったために標準事務処理期間を大幅に下回る期間で終わったために、破綻していたと思われる開発計画がなんとかなったこと、など)

 

不運なイベントがしばしば訪れるのと同様に、幸運としか言いようのないラッキーイベントもまたしばしば訪れる。だから、一番陥ってはならないのは、「順当に考えて、この計画はどうにもならない。もう諦めてしまおう」とか「どうせ成らない計画に決まっているのだから」と投げやりになってしまうこと。

 

卑近なものでたとえると、麻雀の配牌だろうか。

 

どうしようもない、ゴミ手としか表現できない配牌であっても、その後のツモでカンチャン・ペンチャンが面白いようにハマっていくこともあるし、使い勝手の悪いオタ風の字牌がカンによってドラになり、さらにそれが暗刻となりたちまち満貫コースということもある。

 

計画策定段階では幸運の存在をアテにしてはならないが、いよいよ計画を実施する段になったときは、いや実施するより他なくなってしまったときには、ある程度の幸運を信じて、投げやりにならずに最大限頑張って進めるのが良い。

体外放出によりストレスは解消されるということ。また、相談の際は言いっぱなしで構わないということ。

社会人になりたての頃、酒の場で、会社の先輩に言われたことがある。

 

「ええかー、ストレスが溜まったときはなぁ、体の中から液体を出したらスッキリするんやぞ!」と。

 

その際、先輩が列挙した液体というのは「涙・汗・精液」であったと記憶している。(下品な話の好きな方だったので3点目に重点が置かれていた)

 

だからストレスが溜まったときは運動して汗をかくなり、感極まって大泣きするなり、マウス片手に自慰行為に励むなどして適宜解消するのがよいという教え。

 

これはあながち間違いではないと思っている。精神的に参った時に運動すると気晴らしになるし、辛い時は(人前でやるのは格好悪いが)泣くのもいいし、どうしようもない衝動に駆られたときは射精するとスッキリする。

 

付け加えるとすれば、体の中から外に出すものは液体に限定されないということ。たとえば「言葉」でも構わない。

 

悩みを抱えている時は、誰かに相談することで随分と気持ちが落ち着く。

 

ここで大事なのは、相談に対する回答はオマケみたいなもの(それどころか蛇足とすら言えるかもしれない)で、悩みを聞いて貰うだけでいいということ。相談の肝は「自分の中の悩みを言語化して外に放出する」ということにあるから。

 

哲学者の國分功一郎氏は相談の本質を〈物質化した観念の体外放出〉と表現した。まさに的を射た表現である。「相談」というと、相手のあることだし、どうしても身構えてしまう(相手のことを意識してしまう)が、観念の体外放出と考えればそのハードルも低くなる。

 

運動をするとき、誰が流した汗の行く末を気にするであろうか。号泣するとき、誰が流した涙の行く末を気にするであろうか。

 

それと同じように、悩みを相談するときも、言葉の行く末を気にかける必要は全くないのである。それよりも、悩みが大きすぎて体外放出できないという事態をこそ、重く見るべきである。

 

悩みを言葉にできない状態というのは、体を動かす気力もない、悲しいけれども泣く気力もないというほどに事態が深刻であるということの表れなのだから。

 

 

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう

 

 

カツオ出汁

独身時代からしばしば料理はしている。

 

長年のhalberにおける料理の基本方針(というほどのたいそうなものでなはないが)として、「出汁をしっかりとる」ということを意識している。

 

実際、自分で料理をするまでは「出汁なんてあってもなくても変わらんやろ。醤油や酒と違って、味に影響を与えるものではない」と思っていたが、なんのなんの、出汁をとるとらないでは完成品の味が全然違う。

 

昆布、椎茸、煮干しなど出汁にも色々あるが、とくにカツオの出汁が好きだ。カツオ出汁の味噌汁ほど旨いものはない。

 

菜の花の沖』という江戸時代後期の商人高田屋嘉兵衛を描いた司馬遼太郎の小説がある。そのなかで、「江戸時代、カツオの出汁というのは贅沢品であって庶民がそうそう口にできるものではなかった」というような記述があった。(庶民はせいぜい「いりこ(煮干し)」の出汁であったらしい)。

 

halberのような庶民でもカツオ出汁が自由に使える時代に生まれたことを感謝しつつ、今日も「だしてんねん」で出汁をとって家族の食事を作る。

 

 

シマヤ だしてんねんガゼット 192g

シマヤ だしてんねんガゼット 192g

 

 

兼好法師と鴨長明

兼好法師の『徒然草』と鴨長明の『方丈記』は、ともに日本三大随筆に数えられている名作だけれども、内容は似て非なるもの。

 

徒然草』からは世間というものに対する「達観」が伝わってくるのに対しては、『方丈記』は斜に構えたことを言いつつも、なんだかんだで浮世に対する未練が感じられる。出世争いに敗れたおじさんが、「出世なんて…」と言いつつも、実はまだ出世に拘っている、そういう印象を受ける。(彼の経歴を見るとそのような文章を書くのも宜なるかな、であるが)

 

だから『徒然草』はいまでも読み返す座右の書の一つであるけれども、『方丈記』は再読する気にならない。会社の飲み会かなどで、散々「「出世なんて…」と言いつつも、実はまだ出世に拘っているおじさん」の話を満腹するくらい聞かされているから。

会社と顧客の狭間にて――上司による確約の反故。

会社の都合と顧客の要求との間で悩むのが営業の宿命である。

 

(社会的ステータスは全然違うが、これは外交官の立ち位置に似ている。彼らも本国・駐在国の双方からスパイ呼ばわりされることがある。)

 

さて、外交交渉でもなんでもそうだろうが、うちの会社でも営業をかける時は顧客の要求に対し「ここまでなら譲ってもいい」という妥協ライン・条件のようなものを決めておく。これは、事前に上司の確約をとっておく。

 

しかしながら、上司といえども中間管理職であるから、その確認も絶対ではない。会社の都合、役員たちの思惑などによって、後になってから、「その条件ではダメだ」と確認事項を覆されることが頻繁にではないが偶にある。

 

その際、上司は部下たるhalberに告げる。

 

「たしかにその条件までは妥協しても良い、というニュアンスのことはいったが、絶対ではないと留保をつけておいたよな? その条件で良いなんてひとことも言ってないよな? なんでその条件を客に営業かけてるんだ? お前のミスだよな? だからお前の責任でちゃんと処理しとけよ!」

 

しかし、顧客には既に元の条件で契約の内諾を得ているし、向こうもそのつもりで色々と準備を進めている。当然相手方に諸々の経費も発生している。今更、「条件が変わりました。契約は流しましょう」とは言いにくい。怒られる、どころの騒ぎではなかろう。

 

ここで冷酷な上司を詰っても仕方ない。彼もまた所詮は惨めな組織人なのだから。ゆえに取りうる手段は二つ。

 

上司がhalberにそうしたように、halberも顧客に対して冷酷になること。「その条件は絶対とは言いませんでしたよね? 何か勘違いをなされているのでは」で押し通す。散々怒鳴られるが、ひたすら耐える。それでもうまく捌くことができれば、こちらの査定には響かない。上司もえびす顔であろう。

 

しかし、これは顧客に対して申し訳ないうえに(営業でこんな感情を持つのは偽善以外の何者でもないが)、halberが会社に対して甜められる恐れがある。

 

つまり、「アイツになら多少あやふやな段階で条件を降ろしても大丈夫だ。何かあっても自分の責任でなんとかするだろう」と、いい加減な情報を掴まされる可能性が高まる。(一見有能な感じだが、この評価は出世につながらないと思う。せいぜい会社として使い勝手のいい鉄砲玉扱いである。)

 

だから、一時の査定を犠牲にしてでも強気で押し切ることも(時には)必要である。

 

強気というのは、もちろん、自らが所属している組織に対して強気に出るのである。

 

「留保だったかなんだか知りませんが、事実として手続きは進んでいます。ここで顧客に対する約束を反故にすると損賠請求訴訟の可能性があります。営業担当の印象として、その顧客は法的措置を濃厚に匂わせています。ですからここは元通りの条件でなんとかしておかないと、会社に損害が及ぶことになります」と。

 

多少のハッタリも織り交ぜて、会社を、役員をびびらせるのだ。思うに、営業は顧客との駆け引きだけでは不十分であり、顧客に対してするのと同じように会社と駆け引きする必要がある。

 

今期のhalberの査定はボロボロだろうが、しかし本当に理不尽な「確約の反故」をされた時には、このくらい強気に出なければ会社から甜められる。会社から甜められるということは顧客からも甜められるということで、結局のところ大きな取引などは扱えない人間となる。

ぶよを漉し、らくだを飲み込む役人たち――森友問題について思うこと。

森友学園問題について。役人たちの「忖度」が囁かれている。真偽のほどはわからないが、halberも役人たちとの付き合いの多い業界である、彼らの「忖度」には辟易させられることはある。

 

基本的に、日本国における現場の役人たち(国、自治体問わず)は概して優秀であると思っている。彼らに許認可関係の書類を提出すると、実に細かいところまで、かなり入念に、重箱の隅をつつくように審査をする。

 

法治国家としては彼らの姿勢は何一つ間違っていない。

 

しかし、森友のようなことがあると、許認可手続きにおける彼らの二面性にため息をつかざるを得ない。

 

あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。(マタイ23:23)

 

今後、大阪府は私立学校設置の審査手続きを厳格化するという。しかし、これは、結局漉されるぶよの対象が増えるというだけなのではないか。肝心のらくだは、しっかりとシャットアウトされるのだろうか。

どんなに気をつけても揚げ足をとる奴はいるので、時には開き直ることも重要であること。

反社会的勢力を相手にするときの心構えを、しばしば会社からレクチャーされる。そのなかの一つに、「迂闊な一言は絶対に言うな」というものがある。なぜなら彼らはこちらの言葉の隙を狙い常に揚げ足をとる機会を狙っているのだから。ゆえに、発言には慎重であらねばならない、という。

 

これ自体に異論はない。反社会的勢力の手口を書いた本にも、そのようにある。以下は、住吉会最高顧問浜本政吉氏についての記述。

 

よくいわれる浜本の掛けあいの凄みを、元側近はこう証言する。「そりゃ、ひと言ひと言が勝負の世界ですからね。こっちが三分で向こうが七分くらいの有利で来る場面でも、浜本はまず向こうの話をジイッと聞いてます。ひと言間違った言葉を吐いたら、そこでバーンといくんです。そうすると五分五分になります。そのうちに立場が反対になっています。

 

『ヤクザに学ぶ交渉術』(pp13-14)

 

しかし、ここで留意しておきたいのが、どんなに気をつけたとて、彼らは絶対といっていいほどイチャモンをつけてくるのである。なぜなら、浜本政吉氏の記述にあるように、それが作戦だから。些細なことに言いがかりをつけてきて、さもこちらに非があるようにやり込めてくるのが手口。慎重になりすぎて貝になる戦法をとったとしても、彼らは逆に「何でさっき言えとったことが言われへんねんワレ!」「会社の公開資料に書いてあることが、なんで言われへんねんなめとんかボケっ!!」と、こうくる。

 

したがって(無論、迂闊な一言を話さないに限るが、)もしうっかり放言してしまっても、「だから、なんですのん?」くらいの開き直りがほしいところ。

 

反社会的勢力相手に、雑な対応をしてはいけないが、だからといって、こちらに絶対的な無謬性が課せられるわけでなし、イチャモンをつけられた時は開き直ることも大事だと思う。

 

それくらいでないと「間違えてしまった……!」「どうしよう……!」という気持ちの負い目が生じ、彼らはそこにズケズケとつけ込んでくるのである。

 

だから、こう言いたい。開き直ることこそ肝要と。

 

 

ヤクザに学ぶ交渉術 (幻冬舎アウトロー文庫)

ヤクザに学ぶ交渉術 (幻冬舎アウトロー文庫)