俗物による自戒ノート。

特に、ままならぬ仕事、毒親からのストレス、神経質な妻そして愛しい子どもについて。

癒されるということ。

「子どもの顔を見ると仕事の疲れも吹き飛ぶ」などと言う人がいる。

 

そんな馬鹿な。と常々思っていた。子どもの顔を見ても疲れがとれるはずがない。

 

けれども、昨日、仕事で疲労困憊して帰宅して娘の寝顔を見ていたら、なんとなく言わんとしていることが理解できた。

 

疲労は取れないが、思考がクリアになる。

 

仕事で疲弊すると、halberは思考が拡散してしまう。一つの物事を考えることが困難になり、話すことも支離滅裂になる。頭に霞がかかっている状態。そして結局何事も進まない。

 

しかし、不思議と我が子の顔を見ると、拡散した思考がクリアになっていく。頭に纏わりついた霞が取り払われる感じ。ああなるほど、世に言う「疲れがとれる」とはこのことを指すのか。

 

たぶん、癒されるにあたっては、相手が子どもである必要はあるまい。

 

配偶者かもしれないし、飼い猫かもしれない。場合によっては無機物かもしれない。なんにせよ「癒されるものをもつ」というのはストレスの多い現代社会に生きるうえでは不可欠である。

 

そしてこの場合の癒されるとは、「疲れがとれる」というよりも、(疲れは睡眠でしか除去できない)、思考がクリアになるということである。

自己啓発書としての『人口論』

人口論』は、人口増加が食物増加が上回りそれが貧困などを生むことを説いた人口学の古典的名著である。たしか高校の地理の授業でも名前だけは出ていたはず。

 

さて学生時代にこの本を読んだときに感銘を受けたのは、「なぜ神はそのように(人口増加>食料増加)世の中を作り給うたか?」という考察をしているところだった。(非キリスト者であり当時は全く宗教に関する知識もなかった自分にはそもそも「なぜ神はそのように世の中を作り給うたか?」という発想が存在し得ることすら衝撃的であった。)

 

食物がどんどん増える仕組みであれば人間は苦労せずにすむ。それが良い世の中ではないのか。なのになぜ、神はそうしなかったのか。

 

マルサスの答えは、能力を開花させるためあえて人間を頑張らざるを得ない環境に置いているというものだ。

 

こうして、刺激を休むことなく与え続けるために、また、人間に土地をすっかり耕せて、人間を慈悲深い神の計らいにますます寄り添わせるために、神は、人口が食物よりも速く増加するように定めた。(p259)

 

なるほど、人口増加の法則はさまざまな問題を引き起こすけれども、それはじつは神の全体的な目的を阻害するものではなく、むしろ促進するものなのだ。それはたしかにそうだろう。人間をあらゆる方面で努力するように刺激するし、全体として精神の成長を促すような場面や印象を、さまざまな形で無限につくりだすからである。(p263)

 

なるほどそういう考えもあるのかと、当時は衝撃を受けたものだ。この考えは、今でも役に立っている。仕事で辛い局面に遭遇したときは、この一文を思い浮かべるようにしている。いささかマッチョな思想ではあるが、こうでも考えないと理不尽や世の中を生きていくことはできぬ。

 

そして、よくいわれるとおり、人間はいままで出会ったことのない異常な事態にまきこまれると、それと取り組むのにふさわしい精神力ができていくものなのである。(p266)

 

 

人口論 (光文社古典新訳文庫)

人口論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 

良いことと悪いこと。

禍福は糾える縄の如しなどという格言を持ち出すまでもなく、良いことと悪いことは交互にやってくる。

 

不測の事態が相次いで数日前まで追い込まれていたパンク寸前の状態であったものが、思わぬ幸運に恵まれたおかげで(まさかこの案件がまとまるとは!)、今はとても気分が高揚している。

 

そしてまたしばらくすればツイていないことが発生して落ち込むのであろう。世の常である。

 

大事なこと。何をやってもうまく行かない時もある。そういうときでもとりあえず手と足は動かしておくこと。そういうときは、あまり先のことを考えないこと。

仕事がうまく行かない時は。

方法は二つある。

 

開き直って眠ること。遊ぶのではない。「眠る」こと。心配事のほとんどは睡眠することで、解決策とまでは言わないまでも、以前よりも良い案が浮かぶことが多い。

 

もう一つは、手と足を動かすこと。せっせと書類を作成して、営業をかけるのだ。今後の成績見込みとか、先のことを考えてはいけない。とにかく、手と足を動かすこと。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。

予算(ノルマ)が達成できなかったらどうしようか。

何も思い煩うことはない。

 

社内での評判が落ちて、ボーナスの査定に響くだけだ。あまりに未達が続くと会社に居づらくなることもあるだろう。ならばしかたない、何か別の仕事を探して口に糊するまでだ。

 

そのくらいの気持ちでいかないと、あまりにも窮々と仕事をしていては幸運の女神にも見放される。いやなにより、精神や身体を患ってしまっては元も子もない。

 

心身健康ならば、何らかしらはできるものだ。焦るべからず。

 

 

部下のミスに腹を立てるな。

なぜそのようなミスをするのか、まったく理解に苦しむ。

 

専門的な知識など不要で、一般常識レベルの作業であるはずなのに。もう少し丁寧に仕事をすれば間違うはずがないのに。気の利いたアルバイトですらそのくらいこなすだろう。そこそこの学歴があって、正社員として雇われた者が、なぜ何回も同じような単純ミスを繰り返すのか。

 

だが、腹を立ててはいけない。そして、ミスを責め立ててもいけない。それこそ愚者の行為だ。

 

振り返ってみよ、自分が見習いだった頃のことを。同じミスではなくとも、同じようなミスはしていたはずだ。そのときの上司は、寛大な対応をしてくれたではないか。または、辛く当たる上司の下ではますます萎縮してしまっていたではないか。

 

ゆえに、いまは寛大な対応をとるべきである。そして、寛大な対応をとっているということすら悟られてはいけない。「間違えたのか。そうか。では修正しておいてくれ」くらいのことを澄まし顔で言うくらいでなければならぬ。

 

自分にとって理解のできない(ゆえに怒鳴り散らしたくなるような)ミスは、今後の自分の勉強にもなる。自分に理解のできないミスということは、いままで自分が経験しなかっただけのミスであり、人間である以上は同種のミスを犯す可能性があるということ。だから、自分に代わってミスを経験してくれたわけだ。部下に使うべき言葉ではないが、以て他山の石とすべし。

 

何より大事なのは、自分もまた、上司からそのように思われているということを忘れないようにすることだ。

人生の岐路にたったときに役に立つ学問。

「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」という阪大教授の言葉。

 

人生の岐路で役に立つという意味では、文学部の学問に限らず、リベラルアーツ系の学問全般にあてはまる。金儲けや実務に直結しなくとも、教養を身につけておくと、人生に迷いが生じたときに役に立つし、大局観、人生観を養うためにも不可欠。

 

省みると今現在仕事で活用しているのは主に法律と不動産関係の知識であるけれども、いまの自分を形づくっているのは、やはり大学時代に学んだ教養系の講義だと感じる。

 

専攻は経済学であったが、むしろ励んだのは他学部の社会学関係の講義であった(少人数で『リヴァイアサン』を精読する講義。あれは良かった。この講義を受けて以降、はじめて学問のために自主的に本を読むようになった)。

 

実務系の知識とリベラルアーツは車の両輪だ。片方だけでいけない。教養だけでは浮世離れした仙人であるし、実務系の知識だけだと〈人生の岐路〉に立たされたときに不安が残る。

 

ことさら文学部を推すこともないが、教養の重要性はもっと広く知られるべき。