俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

読書の目的

読書には、未知のものを知るという効用のほかに、イメージとしては漠然と理解しているものを言語によって明確にするという効用もある。

頭の中でなんとなくわかっているものでも、それを言語等でうまくアウトプットすることは、凡人にはなかなか困難なことだ。

読書をすることによって、既に言語化された著者の考えに触れることは、アウトプットの大きな手助けとなる。著者の意見に同調する場合はもちろん、異なる場合であっても、だ。(その場合は著者への反論という形で言語化の手助けとなる。)

読書とは対話である。

一握りの天才でもないかぎり、自分ひとりの脳みそでは限界がある。また、賢人とのリアルな対話はコストが高い。ゆえに、読書という形式で、対話するのである。

なお、一握りの天才というのは、ショーペンハウエルのような人物を指す。彼は「読書は他人の頭を借りること」と述べた。

明日のことは、明日の自分が考える。

仕事でとんでもないミスをした。顧客への説明内容を間違え、とんでもない損失を与えてしまった。いま現在も損失は膨らみ続けている。社として、どのような処置をとりうるのか、それすら決められないまま大型連休に突入してしまった。最悪のタイミングだ。

こういうとき、我が身の将来を考えると気が滅入る。どう転んでも良い未来があるはずがないからだ。明日の我が身のことは、明日の頭で考えることとしよう。

いまできることは、今日を精一杯生きることだ。久しぶりの連休、娘と思いっきり遊んでみようか(といっても日頃の顔を合わせることがないので全然懐いていないのだが)。

悩み事、考え事は必ず書いてみること。

決して頭の中で完結させてはならない。頭の外に出してみること。

パソコンでもいいが、紙に書くほうが良い。表現方法の縛りが少ないから。文字でも表でも数字でもいい。とにかく頭の外に出してみること。

そうすることで、問題点がクリアになる。自分がいま何に悩んでいるかということを明確にするのは大事だ。「漠然とした不安」ほど非生産的で心を蝕むものはない。とにかく不安の輪郭を明らかにするのだ。

そして、その過程で、場合によっては解決策も見つかる。

他人の評価は水物である。

四月で直属の上司が異動となる。

この上司は、それなりにhalberのことを評価してくれていた。ゆえに多少無理な(リスクを伴う)意見を発案しても通してくれたし、それがまた業務成績の向上に繋がった面もある。

四月以降は、また別の人物が来る。今までと同じようにはいかないだろう。手堅い方針しか採用されないかもしれないし、そうなると成績にも影響することだろう。

重要なのは、人が変われば自分の部署内におけるプレゼンスも変化するということを認識すること。

評価は水物である。「絶対的な自分の価値」など誰にもわからないものだ(定量的にあらわれる営業成績とて、どのような提案を顧客に提示できるかという点が大きい。その提案を内部的に調整できるかどうかという意味で、社内での主観的な評価に左右される)。

自分の価値は、他人にもわからないし、自分にもわからない。ただ神のみぞ知るものだ。ゆえに、他人の評価に一喜一憂するべきではない。あくまで水物、参考意見に留めるべきものである。

或る毒親による金銭的無心の手法

毒親毒親たる自覚が無意識にあるため、自己正当化のために金銭的無心をする際にも何かしら理由をつける傾向があるようだ(建前を重んじること小役人の如し)。

 

今回は、成人前のhalber名義の貯蓄について「一時的に預けていただけであるから、返却して欲しい」との申し出があった。

 

本来であれば受ける必要もないのだが借りを作るのも嫌なので返却することとした(事実は、halberの祖父が自分宛に譲ってくれたものなのだが)。

 

さらには「請求書をそちらに回すので直接支払ってくれないか」という申し出すらあった。こちらについては明確に断った。

 

自分の家庭を犠牲にしてまで、浪費癖のある毒親に金銭的援助をするつもりはない。

 

ここまで息子に負担をかけておきながら「あなたの事を一番に考えているから」とか「ストレスを溜めないように、健康が一番よ」などという言葉を億面をかけてくる。

 

毒親に絡め取られてはならない。

 

 

家族は良い面ばかりではない。

娘と接していると家族とは良いものだと思ってしまう。けれども、親と接していると家族とは煩わしいものだと認識させられる。

 

どのような点で毒親なのかということに関しては、いくら筆舌を尽くして語っても他者には理解されない。親不孝だと思われるのみで、つまりは自分の評判が落ちるのみである。

 

だからこそ、ストレスが溜まる。

 

存在するのだ。確実に。虐待というレベルではないが経済的な部分で、精神的な部分で毒となる親が!

 

しかし、このことは世間からは理解されない。なぜなら親というのは無条件で子を愛するものであり、したがって子の親に対する不満というのはあり得ないものだという前提が、世間には根強くある。これは儒教的な思想によるものなのか。(この点で中国・韓国を蔑む本を見かけたが、とんでもない、日本もなかなかのものだと思う)

 

だから、多分に利己的な目的があるにせよ、家族からも縁が切れるものなんだよ、家族よりも大事なものがあるんだよということを説く宗教というのは一定の支持層があるのだと思う。

 

新約聖書を読むと、家族よりも神が大事なのだという箇所が出て来るし、仏法説話集である『日本霊異記』でも、家族に対してドライな対応をする話がおさめられている。

 

現代においても家族は重くのしかかる時がある。いわんや地縁的血縁的関係が強い古代・中世においては、家族という呪縛から解放されるには宗教の力がなければ難しい時代もあったのだろう。

 

家族からの隔離というのカルト宗教、マインドコントロール臭が漂うが、家族から逃避する手段としての宗教というのは無視すべきではない。

 

 

良いことと悪いことは、概して交互に訪れる。

悪いことが続くと、それを上回る幸運が訪れたりするし、そうかと思えば突如それまでの幸運が吹き飛ぶような大幅な厄災が降りかかったりする。そしてまたそのあと、いままでのものをひっくり返すくらいの出来事が起こったりする。

 

だから少々バッドイベントが続いたからといって投げやりになったり、自暴自棄になったりするのは勿体ないことだ。常に広いフレームで物事を考える必要がある。死ぬその直前までゲームは続く。決して、短期の結果に一喜一憂してはならない。

 

たびたびこのことを書くのは、それが本当に大事なことだと思うからだ。