俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

生まれつきの得手・不得手

生まれつきの得手・不得手というものは存在すると考える。環境もあれば、遺伝もあるのだろう。しかしながら、特に義務教育時代、このことを否定する教師のなんと多かったことか。

 

「努力すれば何だってできる!」

 

というのは、一見するとその子の可能性を潰さない配慮であるが、その実とても残酷なことを強いている。人間、生まれながらにして得意なことと不得意なことがある。「遺伝」という概念は、ナチスの優生思想を想起させるので、リベラル的な考えの持ち主ほど(つまり義務教育機関の教師のような人ほど)、「努力すれば何だってできる!」ということになりがちなのではなかろうか。

 

橘玲の仰々しいタイトルの書を読むまでもなく、進化生物学者ドーキンスの著作やミシガン大学の双子の研究などについて書かれた本を読んでいると、人間(に限らず生命というのは)はタブラ・ラサではないのだという思いを強くする。

 

さりとて、優生思想が正しいはずもなく。そもそも「遺伝的にアイツが優れている」などということは我々では判断できるはずがない。それを判断できるのは神か、さもなくば時間である。自然淘汰により適者は生存する、だが、適者がどのような性質なのかは後から振り返らないとわからない。どのような性質がすぐているのかは、今の我々にはわかりようはずもない。

 

ゆえに、多様性が重要だ。

 

日本の文化について述べた古典的名著『菊と刀』で一番好きな部分は、前書きである。そこで、著者のベネディクトは「日本」という西洋とは異なる文化を研究するにあたり、西洋と日本の文化間において差異を認めることは差別ではなく、差異を認めたうえで尊重することが大事なのだという旨のことを述べている。

 

halberもこの考えに全面的に賛成する。

 

思想が先鋭化する昨今、このようなことを言うと(特にリベラルを自認する者から)「文化相対主義者だ」として叩かれかねない世の中になっているが、ポリティカルコレクトネスということはもちろん大前提として念頭に置きつつも、多様性というのは尊重される必要がある。同時に、多様性を毀損せしめるような思想には厳しく対峙すべきであるとも思う。

 

話が広がりすぎたが、結論として、娘を育てるにあたって、「(親である)自分ができたから、お前もできるだろう」とか、「そんな簡単なこともできないのは努力が足りないからだ」というようなことは言わないようにしなければならない。