予備試験に受かりたい。
これに受かれば司法試験合格への道筋が見えてくる。
令和4年度に初受験。1次(短答式)で惨敗。令和5年度に短答式初合格。しかしながら論文式で惨敗(かろうじて鑑定士試験の知識が活きたか民法だけはA評価であった。環境法もC評価と善戦)。
そして今年度も短答式には合格。来月に論文式であるが、過去問を潰すことすらできておらず現実問題合格は厳しいだろう。それでも受けることに幾ばくがの意義はある。
もとより五カ年計画である。気長にされど着実に行こう。
青春を試験勉強に費やした者の、第二の思春期の到来である。笑わば笑え。
目標としていた資格試験に合格した、次なる目標は。
とりあえず某試験に受かった。
しかし、これで満足はしない。
これで満足していては、何物にもなれない。
仕事をこなし、家事をして、育児もしながら勉強もする。日中や休日は子供の相手で忙しい。だから、朝起きてする。5時? そんなんじゃだめだ。それじゃ何者にもなれない。
3時半。毎日3時半以降に覚醒した最初の時点で起床して勉強だ。
元来、勉強は嫌いなタチではない。ただ、遊び半分のふわふわした気持ちじゃ、試験には受からない。本気でやらないと。ゲームとて、ハマってるときは夜を徹して本気でやっただろう? それと同じ。
30も半ばになると、人生の終わりを意識する。目先の営業成績をあげることや社内派閥争いをうまくやることも大事。それを諦めたら、それは仙人だ。
ただ、それだけではだめ。
実際、俗物であるし、俗物であることを周囲にアピールすることも大事(仲間、同一「部族」であることのアピールとして)。
けれど、どこかでそれを超えた何かを見据えることも必要。仙人になる必要はないが仙人的な要素は必要だということだ。
仙人的な要素は語るだけではだめだ。実践しないと。
それが、自分の場合は早朝の勉強であり、予備試験に受かることであり、司法試験に受かるということ。
仙人的な要素は、まわりに語る必要はない。浮世離れしたアホと思われるだけだから。早朝起きて勉強してることもその目標も、おくびにも出さない。
そう努力は見せない絶対に。涼しげにやるのだ。何もなかったように、涼しげに、達成してから話す。そういえばそうですね、そんな感じで。
とはいえ自分は俗物だから、王様の耳はロバの耳をしたい。よって、このブログに書くこととした。 以上
小心者の上司を諫めるためには
小心者は、その本性を悟られたくないがゆえに、時として蛮勇とも思える決断を下す。しかしながら、時が経過し、いざその決断のゆえに招いた事態に直面すると、狼狽えるか責任を転嫁するのが常である。
したがって、そのような者の下についた時は、その本性に触ることなしに、むしろそれを利用して方針を変えてやる必要がある。
本性に触るとは「その決断はリスクが高いですよ」と直言することだ。これは有用ではない。なぜなら、自分がさも肝が据わっているように見せかけようとして、ますます意固地になって高リスクの自説に固執するからだ。
だから、「こうなった時にはどうしましょうか」と不安な未来を提示して、さらに肝心なことは結論をその場で出さないこと。
不安な未来さえ提示しておけば、そもそも小心者なのだから、段々と勢いも落ちてきて、方針転換してくれよう。
小心者が悪なのではない、それを取り繕うために蛮勇に走ることが悪なのである。
家族に乾杯。
母親から間接的な経済的支援要請の連絡あり、気持ちが滅入る。道義的にも法的にも扶養の(努力)義務があるので無下にはできぬ。
もっとも経済的支援をするとしても今度は妻が黙っていない。「うちだって楽じゃないのに、子供たちのために使うお金が減る」等々。
そしてたとえ支援しても、母親から感謝されることはないのだ。養って当然という意識、なんから金額が不足しているだのなんだの文句をつけてくること必定。
ふと、岡田尊司という精神科医の本を思い出す。宗教等によるマインドコントロールの恐怖を説いた本。曰く宗教は家族との繋がりを断ち切ることを基本とする。関係性を断つことで洗脳しやすくなるそうだ。
なるほど、宗教というのはよく出来たものだ。「家族との関係を断ちたい」という人間の欲を見抜いている。そして道徳的にも正当性を与えてくれる。
新約聖書には親子の繋がりより信仰の重要さを訴えるエピソードに事欠かない。日本霊異記には親に金を返せを怒る息子に、なら先にお前が小さい時に飲んだ乳を返せと凄む老母の話がある。
洋の東西を問わず、家族というのは悩ましいものなのだ。「ほだし」という古語には 係累という意味に加えて、拘束するものという意味があることからもよく分かる。
某政党の改憲案で一番恐ろしいのは軍に関する部分ではなく、家族の相互扶養義務を強化する部分だ。この改憲規定案がある限り、じぶんはどこまでも護憲派である。
嗚呼、久しぶりにこの悩ましい気分。
こんな時は、聖書か徒然草か日本霊異記を読むに限る。人生で迷ったとき、頼りになるのはこれらの本である。そしてそれらに飲み込まれないために、岡田尊司の『マインドコントロールの恐怖』とリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』も併せて読むといい。
労苦多い時期の方が思索している
ノルマなどを追われていた時期のメモ帳を見ていてそう思う。このブログにあげるにも至らなかった、まとまりと論理的整合性を欠いた文章というか文字列の数々。
ただ、それでも未来の自分にそれなりに刺激を与えているので、こんなものでもとりあえず文字にしておくのは意味のあることだ。
中立はなく、攻めるか攻められるかのどちらか
仕事でもプライベートでも、攻めなければ攻め込まれるだけ。
自分からどんどん切り込んでいけば仕事も面白みが出てくる(ことが多い)が、守りに入ると途端につまらなくなる。
同じタスクでも、他人から「あれや、これや」と言われて着手するのと、自分の頭で考えてやるのとでは雲泥の差である。自己決定感とでもいうのか。
だから、「楽をしたいな」「この案件いやだな」と感じた時は、積極的に攻めていくのが良い。そうすれば、攻め込まれないから。