俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

一日が終わる前に思うことは。

平日であれ休日であれ、一日が終わり夜を寝る前にその日のことを振り返る。

以前であれば、その日にどのような成果を出せたか、どんなことを学べたか、どれだけ生産的に時間を過ごせたかというところに価値を置いていた。大きな成果が出せた日、いろんな知識を得た日、生産的に時間を使えた日が「良い日」だ。

しかし子どもが出来てから考えが変わった。とにかく子どもに「何も無ければ」、それは「良い日」だ。

夜寝る前には、どのようなことを成し遂げたかより、「嗚呼、今日も一日、事故や事件に巻き込まれず無事に終えることができる。良かった」ということを思う。

なにかにつけ、非冒険的な方向に価値観が変わりつつあると同時に、世の中の不確実性・不条理に対して敏感になりつつある。極度に事故や事件に恐れを抱いてしまう。

家族間のトラブルだからこそ、ある一線を越えたときは第三者の介入を求めるのがよい。

島田紳助「親と子のケンカに弁護士が入ったらアカン!」宮迫・田村造反劇への悲憤

弁護士が法的、権利的なことを言い出すと収拾がつかんくなる。家族のあいだに弁護士が入ったらあかん。離婚や絶縁やって話になるやろ。契約書を交わさないのも、そこに家族的な信頼関係があればこその話。権利的に曖昧なのは仕方ないことや。

https://news.livedoor.com/lite/article_detail/16856693/

ここでいう「家族」とは比喩表現だ。しかし、本当の家族だって所詮は他人同士の寄り合いに過ぎない。したがって、トラブルが生じてどうしようもなくなったときは弁護士や行政機関に頼るべき。

家族だからといって頑なに第三者の介入を拒み続けると、崩壊の危険もある。

「家族間のトラブルは家族で」という常識を逆手にとって家族を食いつぶしていったのが尼崎事件。「葬式のやり方が違う」とか「預けた親戚の躾がなってない」という家族トラブルで難癖をつけて、人を嵌めていった。ちなみに、早期に弁護士と警察に相談した家庭は難を逃れている。

家族を神聖視する勿れ。
一線を超えたら、弁護士や行政機関の介入を厭う勿れ。

少子高齢化は国力の低下に繋がらないという、「非昭和的」主張について

少子化 国力」で検索したらわりと上位に出てきた記事。荒川和久さんという人のブログらしい。

「少子高齢化、人口減少で国が滅ぶとかいう昭和脳の人たちはとっとと退場してください」

少子高齢化で国が滅ぶかどうかはわからないけれども、国力の減衰には繋がるだろうし、結果として滅亡に至る可能性があると考えている。

人口=国力という定義から脱しきれない昭和な人

という記述があるので、そういう意味ではhalberも昭和脳に分類されるのだろう。

これが認識違いだという。

では、どんな論が展開されているのかと思って楽しみに読んでみたら、結局は生産年齢人口の定義をいじるという話だった。要は、時代とともに生産年齢は高まるでしょう、だから大丈夫という話。

大事な視点を忘れているんですよ。高齢化社会とか超高齢化とかいいますけど、何をもって高齢化なのか?今から50年後に果たして65歳は高齢者なのか?むしろ、現役バリバリの生産年齢対象者かもしれない。

今から50年前の1965年、男性の平均寿命は67.74歳でした。当時は55歳定年で、60歳以上を高齢者と呼んでいた。高齢者になって7年で死んでいたわけですね。逆に言えば、死ぬ12年前までは現役で働いていた。

2065年男性の寿命は、84.95歳になります。仮に、その12年前と言えば、72歳です。つまり、65歳なんて全然高齢者じゃなくて、現役で働く年なんですよ、50年後は。

だったら、生産人口は減らない。

たしかに、健康寿命はおおむね平均寿命とともに高まってはきている。だから、働ける年齢が伸びていると言えなくもないだろう。

けれども、体力や思考力が年齢とともに衰えていくのもまた事実。

認知機能が老化する1番の原因は加齢です。60歳を過ぎると認知機能が少しずつ衰えるといわれています。

公益財団法人長寿科学振興財団

マクロで考えても、高齢化率の高まりは恐ろしいほどの医療費の増大をもたらす。これは財政的な制約をもたらす。(いま流行りのMMTであっても、無限に財政支出が増やせるわけではない。インフレ率が制約となる)

年齢階級別1人当たり医療費、自己負担額及び保険料の比較(公的医療保険)(年額)(厚生労働省)

生産人口は減らないが、生産力は落ちるだろうし(生産性という言葉は昨今扱いが微妙なので、敢えて「生産力」としておく)、財政的な制約も増えるので、どう考えても国力は落ちる気がする。

一体、荒川さんはどういう未来を想定しているのだろう。記事の中には、50年後の働き方についても触れられている。

例えば週休4日制の複業が認められている社会。すごく働きたい人は働くことに生き甲斐を見出し、趣味に生きる人はたっぷりある時間を仕事以外に使う。…というより、多分50年後は遊び=仕事になっていると思うんですよね。

凄くユートピアな感じであるけれども、〈テクノロジーの進歩〉でここまで気楽な世界が到来するものだろうか。仮に、そんな技術革新が訪れるのであれば、高齢化率が低い国は、もっと豊かになってるんではないだろうか。(国力というものは、あくまで同時代の国々で比較する相対的なものだ。現代の貧困に喘ぐ人に「確かにあなたは貧しいけれども、テクノロジーの進歩のおかげで、原始時代の人間と比較すれば豊かでしょう?」などと言っても説得力に欠ける)

なんとなく腑に落ちないが、最後まで読んでみる。

それでも昭和脳の爺さんは言い続ける。
いずれにしても少子化人口減少は進む。国力が落ちる。

何を言ってるんだ?

日本だけを見て、少子化人口減少は国が滅ぶという人がいるが、地球規模で見たら、これ以上の人口増加は地球自体の滅亡につながりますよ。

むしろ6000万人くらいが適正人口なんですよ。それでやっていける。

国力の話をしているのに、地球全体の話をするのはすり替えられている感がある。(もちろん、移民を前提にしているのであれば話は別。)

それに、人口規模が問題なのではない。高齢化率が問題なのだ。それを前提に論を進めていたのに、なぜ再反論のくだりで人口規模に話を戻すのか。

ここまで読んで、「これが令和脳か…」という言葉が頭をよぎり、「まぁ、個人がブログで何を主張しようが自由だし」とも思って流そうと思ったけれど、荒川さんという人はメディア露出も結構あって、本を何冊か出版している、わりと有名な人のようだ。

少子高齢化による国力低下というのは、日本の大きな課題である。

対策をした結果、どうにもなりませんでした、なら仕方ない。あるいは、ゆるやかに黄昏の時代を迎えましょう、というのもそれはそれでありかもしれない。または、これからは「国家」という枠組みで「力」をはかるのはナンセンスという考えも嫌いではない。

けれども、「少子化高齢化で国力減衰という主張は昭和脳!」みたいな論を、よくわからない根拠で著名人が吹聴するのはよろしくない。

だから、反論を書いておいた。

「年金はもう貰えないものと考えている」

ニュースを見ていたら2000万円足りない報告書問題の影響で、投資セミナーの受講者が増加中、という映像が流れていた。そのなかで、若い男性がタイトルの発言をしていた。

年金をあてにせずに頑張って働いたり、無駄遣いせずに貯蓄するのは結構だと思うけど、「年金あてにできないから投資始めました!」みたいなのはカモられる匂いがして気の毒だなと思う。

人は、負けが混むとリスキーな賭けに挑みがちなことはよく知られている。

「あなたは、2000万円負けていますよ。だから、ひと勝負して取り返しましょう! このままだと、破綻ですから」

将来の不安を必要以上に煽り立て、それにつけ込んで金儲けを企む者たち、これはとてもあさましい。

現代貨幣理論について思うこと

現代貨幣理論(MMT)というのが近頃流行っているらしい。

端的に言うと、デフレ&低インフレの際は財政赤字を気にせず政府支出を増やしましょう、みたいな考え方。

理屈としてはなるほどなぁという感じだけれども、政策として実行するとなると、さてどうかなと思う部分がある。

インフレ率が向上したときにうまく財政支出を抑制できるのか。族議員や利益誘導型の政治家、業界団体の圧力で、一度増やした支出を機動的に抑制できず、インフレが止まらないのではないか。少子化問題や年金、医療費の惨状を見てると、そう思う。※

この点について、憲法にも財政民主主義が規定されているよね」「つまりは国民を信頼していないってこと?」という反論があるようだけれども、自分の答えは「はい、まったく信用なりません」ということになる。

第一、日本のMMT支持者の顔ぶれを見ると「デフレを20年も放置した!」とだいたい日本の経済政策を批判している。でも、その政策は民主主義によって選ばれた政治家によって決定されたものに他ならない。

経済政策に関して、一方で民主主義に信頼を置きつつ、一方でこき下ろす、という按配がよく理解できない。

MMTに基づく経済政策を採用したらしたで、方向転換が求められる局面において、デフレを放置した90年代と同じような過ちが展開されるのではないのか。単純にそう思う。

もっとも、MMTについては超人大陸の動画を見ただけなので、新書なんかを何冊かくらいは読んでみようかなと思う。


https://m.youtube.com/watch?v=LJWGAp144ak

※でも消費税増税決定できたじゃん、ていう意見もあるけど、すったもんだの末の増税で、本気でやるなら全然意思決定が遅い(上げるのが正しいとも思わないけど)。いつだったか、サミットかなんかで、我が国の首相が先進国の首脳の前で「リーマンショック級の不況だよな?」と宣言して、それを理由に増税を延期した、ということがあったけど、政策決定における、そういうところが非合理的でとても嫌だ。MMTに基づく経済政策が採用されても高インフレ率とはなんぞや、を巡って議論しているうちに財政抑制の機会を逸するという事態が容易に思い浮かぶ。

幸運の女神は澄ました態度を好まない。泥臭い熱意がお好みなのである。

仕事にしても、賭け事にしても、恋愛にしても。

その成否は究極的には幸運の女神が微笑んでくれるかどうかにかかっている。

ただし、幸運の女神を振り向かせるにはやれることは全てやっておく必要がある。人事を尽くして天命を待つ、という状態。最初から神頼みではいけない。

そしてまた、クールに決めようとしてはいけない。妙な謙虚さも必要ない。泥臭く、執念深く目標を追い求めるべきである。

「どちらでもいいんだけど、そちらから来るなら受けとってあげようかな」などという謙虚さは不用である。(この点、ハーレム系ギャルゲの主人公などは悪しき見本の典型である。)

金銭、恋愛、地位、名誉、勝負事…等々。あらゆる物事は追い求めてこそ与えられる。幸運の女神は澄ました態度を好まない。泥臭い熱意がお好みなのである。

「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉がある。これは良い言葉だ。というのも、ここで言う「求めよ」というのは、

・真夜中に友人の家に行って
・パンを借りようとお願いしても
・「いやもう子供も寝てるし戸締りしてるから」と断られても、
・なお執拗に頼み込めば
・与えられるだろう

というくらいの激しさなのだ。
このくらいの激しい気持ちがなければならない。

『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだあろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

※1年以上前にブログに書こうと思ってメモ帳に残しておいた文章(20180528に書いたと思われる)

育児が落ち着くまで時間を飛ばせるボタン、あったら押す?

下の子が生まれて、育児の負担が増えて、いよいよ時間的余裕がなくなってきた。

上の子は赤ちゃんがえり気味だし、妻の機嫌は悪いし、仕事にも全力投球出来ずあんまり成果上げれてないし、全方位で辛い。

そこで子供の育児が落ち着くまで人生をスキップできるボタンがあったら押す? という話。

自分は押す派。

けれども、そんなボタンがあったら、なんとなくずっと押してしまいそうで、結局凄く短い人生になるのだろう。もちろん、そんなボタンは現実問題存在しないわけだが、心の中でボタンを押してしまっているわけだから、間違いなく人生を無駄にしている。考えを改めないとならない。

育児の大変さも人生の楽しみと思える人は、人生を長く感じることができるのだろう。

誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。実際、いつか将来のひとときがもたらしてくれるかもしれない楽しみとは、いったい何なのか。…

…生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。

セネカ