俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

「必ず誰かが頑張りを見てくれている」というのは人間に対する過度な期待である。

「理不尽な仕事に従事しているときでも、きっと誰かが見てくれている。そして、その頑張りは必ず後で報われる。だから、腐らずに頑張れ」という言説。

かかる言説は、欺瞞とまでは言わない。しかし、人間に対して過度な期待を抱いている。過度な期待をすれば、あとから絶望することは必定である。

人は、そこまで他人のことを気遣えない。(我が身を振り返って、どうだ?部下の陰ながらの努力や働きぶりを網羅的に把握できているのか?)

自分のことですら把握できているかどうか怪しいのに、ましてや他人のことなどは言うまでもない。人の能力的に不可能なのだ。

だから、「誰かが見くれているはず」などという期待は抱かぬほうがよい。見てくれていなかった場合の絶望が大きいから。

しかしながら、人間は誰かに評価されないとやる気の出ない動物だ。他人に評価される可能性もない理不尽な仕事を続けられるほど強くもない。(ゆえに、「誰かが見てくれているはず」という言説が蔓延っているのだろう)

ではどのようにモチベーションを保つべきなのか。

「誰かが見てくれている」とは限らない、しかし、「何かが見てくれている」

宗教色を強めた言い方をすれば「神が見ている」となろうし、日本流に言うと「お天道様が見ている」という感じか。

つまりは、人知を超えた何かが見守っており、帳尻が合うように差配してくれるのである。

そのように考えた方が、うまくいく。

いっとき、あまりにも仕事で理不尽なことばかり続いたので(評価に繋がらない面倒な案件を押しつけられたり)、ノートに逐一記していた。

そして、理不尽なことと同時に、これはツいているなという出来事も記してみた。仕事の枠を超えて、プライベートの案件も書き込んだ。

そうすると、不思議なことに、不運なことと幸運なことはだいたい帳尻が合うようになっていた。(ように思うだけだ。不運・幸運の程度は数値化できない。だが、主観的にでもそう思えてしまうのが不思議だ)