読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

俗物による自戒ノート。

特に、ままならぬ仕事、毒親からのストレス、神経質な妻そして愛しい子どもについて。

決断した過去の自分を責めるなかれ。

ウォール街で活躍したトレーダー、ナシ厶・タレブは著書『まぐれ』において、世間で考えられている以上に成功は偶然によるところが大きい、と説いた。

 

ある方針を決断した場合に、それが成功するか否かは偶然にも左右される。ゆえに、失敗したからといって、その決断を下した自分を悔いる必要は全く無い。決断の内容自体は合理的であったけれども、単に幸運の女神に嫌わわれただけということもある。

 

これは開き直りでもなんでもない。不確実性を伴う行為をするときには、幸運や偶然の要素というのは付き物である。

 

にも関わらず、「お前の決断は、諸々のデータから照らし合わせると不合理なものだった。だから失敗したのだ」とか「もう少しよく考えて決断を下せば、このような結果は避けられたのではないか」とか「準備不足だったのではないか」などという批判をしてくる頓珍漢がいる。

 

全くもって失当だ。

 

後知恵バイアスなどという言葉を持ち出すまでもなく、現在から過去を振り返ればなんだって言える。

 

どの程度リスクをとるか、そのリスクに見合うリターンはあるのか、それはもちろん、最善を尽くして考え尽くすべきだ。

 

けれども、どれほど理詰めで考えても、不確実性は排除できない。考えれば考えるほど「想定されるリスク」が積み上がっていき、結果、「何もしない」などという方向に流れがち。

 

そうして、「ビュリダンのロバ」よろしく致命的な状態に陥ってしまう。

 

これこそが恐るべき事態だ。

 

(但し「決断しないという決断」を下すのと、「何も決められないまま時機を逸する」というのは月とスッポンである)

 

どんなに最善を尽くしても、人間には限界がある。どれほど優秀な人間でも、未来を完全に予見することはできない。いま成功している人間でも、明日には大失敗するかもしれない。

 

たしかに個々人によって才能の差はある。未来を予測する能力に長けた者はいるであろう。しかし、神ではなく人間である以上、どれほど賢くても・どれほど要領がよくても、未来を完全に予見することは不可能。

 

(金融工学ノーベル経済学賞をとった「優秀で」「賢い」人物が経営していたヘッジファンドであっても破綻する。)

 

だから、過去のその時点において、自分の能力の及ぶ限りで考えた末に下した決断を、後から振り返って責めるべきではない。少なくとも、自分で責めるべきではない。(その批判は幸運の女神を知らないマヌケ連中にでも任せておけ。)