俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

「ぶどう園の労働者」のたとえについて

そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

マタイ20章9節〜12節

 

新約聖書の「「ぶどう園の労働者」のたとえ」(マタイ20章1節から16節)からは学ぶところが多い。

 

頑張ったからといって決して多く貰えるというわけではないこと。(世の中にはそういった不条理はいくらでも存在する。)

 

自分が頑張ったと思っても他人から見ればそう見えていないこともあるということ。(この話を読むとつい早朝から働き始めた労働者に自己投影してしまうが、せいぜい十二時からの労働者あたりが順当なところだと思う。)

 

他人が頑張っていないように見えても、当人なりに何か理由があるということ(「彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。」(マタイ20章7節))。

 

十分な報酬であるかどうかについて一度は満足しても、あとから他人と比較して不満を抱いてしまいがちだということ。(「主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(マタイ20章2節))。

 

さて、『ふしぎなキリスト教』という対談本でこのたとえ話について論じた箇所で、頑張った者も頑張ってない者も同じ報酬なんてなんだか不公平ですねという趣旨の会話があった。

 

最初このたとえ話を読んだ時は自分も全く同じような感想を抱いた記憶がある。しかし、このような「頑張る者は報われる(報われるべき)」的な意見は、「頑張っていない(と自分が思っている)者は報われなくてもしかたない」とか「頑張っている(と思っている)自分が報われていないのに、頑張っていない(ように見える)アイツが先に報われるのは許せない」といった意見にいとも簡単に転じやすいので注意が必要だと思う。

 

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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