悩み事、考え事は必ず書いてみること。
決して頭の中で完結させてはならない。頭の外に出してみること。
パソコンでもいいが、紙に書くほうが良い。表現方法の縛りが少ないから。文字でも表でも数字でもいい。とにかく頭の外に出してみること。
そうすることで、問題点がクリアになる。自分がいま何に悩んでいるかということを明確にするのは大事だ。「漠然とした不安」ほど非生産的で心を蝕むものはない。とにかく不安の輪郭を明らかにするのだ。
そして、その過程で、場合によっては解決策も見つかる。
他人の評価は水物である。
四月で直属の上司が異動となる。
この上司は、それなりにhalberのことを評価してくれていた。ゆえに多少無理な(リスクを伴う)意見を発案しても通してくれたし、それがまた業務成績の向上に繋がった面もある。
四月以降は、また別の人物が来る。今までと同じようにはいかないだろう。手堅い方針しか採用されないかもしれないし、そうなると成績にも影響することだろう。
重要なのは、人が変われば自分の部署内におけるプレゼンスも変化するということを認識すること。
評価は水物である。「絶対的な自分の価値」など誰にもわからないものだ(定量的にあらわれる営業成績とて、どのような提案を顧客に提示できるかという点が大きい。その提案を内部的に調整できるかどうかという意味で、社内での主観的な評価に左右される)。
自分の価値は、他人にもわからないし、自分にもわからない。ただ神のみぞ知るものだ。ゆえに、他人の評価に一喜一憂するべきではない。あくまで水物、参考意見に留めるべきものである。
或る毒親による金銭的無心の手法
毒親は毒親たる自覚が無意識にあるため、自己正当化のために金銭的無心をする際にも何かしら理由をつける傾向があるようだ(建前を重んじること小役人の如し)。
今回は、成人前のhalber名義の貯蓄について「一時的に預けていただけであるから、返却して欲しい」との申し出があった。
本来であれば受ける必要もないのだが借りを作るのも嫌なので返却することとした(事実は、halberの祖父が自分宛に譲ってくれたものなのだが)。
さらには「請求書をそちらに回すので直接支払ってくれないか」という申し出すらあった。こちらについては明確に断った。
自分の家庭を犠牲にしてまで、浪費癖のある毒親に金銭的援助をするつもりはない。
ここまで息子に負担をかけておきながら「あなたの事を一番に考えているから」とか「ストレスを溜めないように、健康が一番よ」などという言葉を億面をかけてくる。
毒親に絡め取られてはならない。
家族は良い面ばかりではない。
娘と接していると家族とは良いものだと思ってしまう。けれども、親と接していると家族とは煩わしいものだと認識させられる。
どのような点で毒親なのかということに関しては、いくら筆舌を尽くして語っても他者には理解されない。親不孝だと思われるのみで、つまりは自分の評判が落ちるのみである。
だからこそ、ストレスが溜まる。
存在するのだ。確実に。虐待というレベルではないが経済的な部分で、精神的な部分で毒となる親が!
しかし、このことは世間からは理解されない。なぜなら親というのは無条件で子を愛するものであり、したがって子の親に対する不満というのはあり得ないものだという前提が、世間には根強くある。これは儒教的な思想によるものなのか。(この点で中国・韓国を蔑む本を見かけたが、とんでもない、日本もなかなかのものだと思う)
だから、多分に利己的な目的があるにせよ、家族からも縁が切れるものなんだよ、家族よりも大事なものがあるんだよということを説く宗教というのは一定の支持層があるのだと思う。
新約聖書を読むと、家族よりも神が大事なのだという箇所が出て来るし、仏法説話集である『日本霊異記』でも、家族に対してドライな対応をする話がおさめられている。
現代においても家族は重くのしかかる時がある。いわんや地縁的血縁的関係が強い古代・中世においては、家族という呪縛から解放されるには宗教の力がなければ難しい時代もあったのだろう。
家族からの隔離というのカルト宗教、マインドコントロール臭が漂うが、家族から逃避する手段としての宗教というのは無視すべきではない。
良いことと悪いことは、概して交互に訪れる。
悪いことが続くと、それを上回る幸運が訪れたりするし、そうかと思えば突如それまでの幸運が吹き飛ぶような大幅な厄災が降りかかったりする。そしてまたそのあと、いままでのものをひっくり返すくらいの出来事が起こったりする。
だから少々バッドイベントが続いたからといって投げやりになったり、自暴自棄になったりするのは勿体ないことだ。常に広いフレームで物事を考える必要がある。死ぬその直前までゲームは続く。決して、短期の結果に一喜一憂してはならない。
たびたびこのことを書くのは、それが本当に大事なことだと思うからだ。
自身の行動原理について
公言して良かったと思ったことは一度もない。個別具体に関する意見や主張はガシガシしていくべきだが、殊に行動原理に関することは公言するべきではない。百害あって一利なしである。
後輩にすれば説教臭くなって疎まれるばかりであるし(表面上はさもありがたそうに聞いてはいるが)、同僚にすれば手の内を見せるようなものだ。
だから、自分の根本的な考えや行動原理というものはそっと胸のうちに秘めておいて、このようなブログや本当に打ち解けた利害の絡まない友人との飲み会でしっぽりと語るのがよい。
成果があがないときは「あれやこれや」と言われるものだ。
しかしながら、指摘を受けたからと言って直ちに自分のやり方や行動が誤っていたとは限らない。
世の中は成果主義であるから、成果があがらないときに周囲がとやかく言ってくるのは当然。しかしながら果たしてそれは中身のある指摘なのか、どうか。
成果というのは運やタイミングに左右されるものだ(特に営業・企画系はそうだがバックオフィスとて例外ではない)。だから、成果があがらないからといって、そして他人から指摘叱責されたからといって、直ちに行動指針を改めるのは控えるべきだ。
他人の言に基づいて狼狽え行動指針を安易に改めることで、かえって被害が大きくなる可能性がある。これは為替の動向に一喜一憂するFXトレーダーが無惨にも往復ビンタを食らうようなものだ。
だから、調子の悪いときに他人から何か言われても、表面上は下を向いてムニャムニャしておけばいいのであって、直ちに行動指針を改める必要はない。
といって、これでは独善的になってしまうので、「この人なら」という人物を予め決めておくのがよい。そして人物のアドバイスというのは、素直に聞くといい。それは上司やチームのメンバーに限られない。
まだ他人からのアドバイスを受け入れる場合であっても、極力、「これまでの自分の生き様」を鑑みて、自分の生き様と矛盾しないかたちで、そのエッセンスのみを抽出するのがいい。人はそれぞれ土台や基礎が違うのであるから、その部分も含めて真似をするのは困難である。