待つことは動くこと以上に難しい。
前回の話にも通じるが、運命の女神がボールを持っているときにあれこれ動くことは賢明ではない。
物事にはタイミングがある。「ここは動くときではない」という時もある。そういうときは、じっと待つことが大事である。あれやこれやと動いた結果、余計に状況が悪化するというケースも多々ある。
どういうときに動いて、どういうときに待つべきか、この判断は難しい。しかし、「待つことが最善策という状況も存在し得る」ということを意識するだけでも気が楽になることだろう。
それは、「こんな大変な状況なのに、なんで何もしてないんだ!」とか「成果があがっていないんなら、とにかく行動しろ!」という道理をわかっていない輩が世の中には多いからだ。だから、待つことは存外に大変なことなのだ。(裏返すと行動は、成果があがらない際の周囲に対するエクスキューズとなる)
しかし、運命の女神は返球を急かされることを嫌う。バタバタした挙句、余計に状況が悪化することがあるのだ。
したがって、周囲の雑音は気にせずに、勝負している当人が「ここは待つべきだ」と判断したのなら、自信を持って待つべきだ。
ボールを神に投げた後は、ただ待つこと。ボールが返ってきたら、すぐに動くこと。
これが仕事の鉄則。
仕事がうまくいかないとき、スランプに陥ったとき、難問にぶち当たったときは、頭ではなく手と足を動かすこと。(凡人の考えは休むに似たりである。世の中の多数派は凡人だ。)
あれこれ考えるのを止めて、とにかく行動すること。巧遅よりも拙速を尊ぶくらいがよい。
しかし、やるべきことをやって、あとは相手方(顧客等)の反応待ちという状態・現状自分がやるべきことはなくなったという状態(人事を尽くして天命を待つという状態)になったときは、下手に動かず、じっと結果を待つことが大切。
もっとも、相手方からなんらかしらの反応があった場合は、それに即応して再び神速で動くことが肝要である。人事を尽くして天命を待つというのは、一回性のものではなくて、反復継続して行われるサイクルである。
こうしてみると、物事は運命の女神とのキャッチボールに似ている。自分のところにボールがあれば、直ちに投げ返す。ボールがないときにボールを投げようとしてはいけない。そして、女神からボールが返ってきたら、再び投げ返すのである。テンポよく、それを続けていけばいい。
結婚はセーフティネットではない。
佐藤優氏はこの本のなかで結婚にはセーフティネットとしての機能があると指摘する。
理由は大きく分けて二つ。①(共働き前提だが)世帯収入が増加する。②何かあったときに双方の人脈(家族の繋がり)を利用できる。
①については概ね同意であるが、②については人脈によるネガティブな側面が考慮されていないと思う。
配偶者の家族は何かあったときに手を貸してくれるだろうが、逆もまた然り。
具体的に言うと、配偶者の親が認知症になったりすれば、当然介護する必要があるわけなのである。損得だけの話で言えば、それは大きなリスクであり、時間的・金銭的なコストである。
ゆえに、結婚はセーフティネットとして捉えるべきでない。むしろ、社会的・法律的なシガラミが増える拘束具として解釈するべきである。
ここからは飛躍になるが、悪人が親族間のシガラミに巧みに付け込んだのが、尼崎の連続殺人事件である。おそるべし。繰り返すが家族を持つというのは弱点やリスク、コストを増やすことになるという一面がある。
順調にいくということは、苦しみも増えるということだ。
財産が増えれば、強盗の心配をしないといけない。
それと同じこと。
順調に事が進めば、地位が上がったり名声が高まったり給料が増えたりする。
しかしそれは同時に、それらを失うことの不安を抱えることにもなる。
仕事がうまく進んでいるとにはついつい喜んでしまうが、このように考えてみると、果たしてそれが良いことなのかどうなのか。
家族にしてもそうだ。
娘の誕生と成長は、無上の喜びを与えてくれるが、しかし娘が不条理な事故や事件あるいは病にふせったときの悲しは想像を絶するものになるだろう。
だから、喜ばしいことは悲しみの序曲でもある。このことを肝に命じていれば、それほど一喜一憂することもなくなるはずである。
ものごとを学ぶ際は。
仕事にかんすることであれ、資格にかんすることであれ、なにかを学ぼうとするときは常に質問を意識して学習するとよい。
仕事にかんすることであれば、顧客や取引先からの質問を、質問にかんすることであれば、試験で問われそうなことを意識して学ぶということ。
わかりやすいのが資格試験であって、これは過去問を見ればどのような問われ方をするかがわかる。実は資格試験における過去問というのは知識を身につけるためというよりは、どのような問われ方するのかを知るためにある。
問われ方を意識してテキストを読むのと、ただ漫然とテキストを読むのでは効率が全然異なる。
人間である限りは万物を理解するのは困難なのだから、「問われ方」を意識して、理解の範疇を限定したうえで学習したほうがよいのはある意味自明のことである。
切り口が違えば、ものごとの見方も変わってくるものだ。たとえば、林檎について、我々はどのように理解すればよいのか。林檎を料理で使うためなのか、写生で使うためなのか、植物学の研究のためなのか……。切り口や目的によって、同一の物質・事象であっても見え方が異なってくるのである。
ただし、一部の天才は多数の切り口が同時に分析ができる。それでも、神でない限りは、林檎ひとつとってみても完璧に理解するということは不可能だ。
(追記)
端的に言うと、「インプットの際は、アウトプットを心がけよ」ということ。
人の人たる所以は何か。虚構を語る能力について。
言語である。
しかし、情報伝達手段としての言語ならば、他の生物とて使用している。(例:ミツバチ、アリ)
さらに、口頭言語であることも、人間特有というわけではない。人間以外にも多くの動物が口頭言語持っている。(例:サバンナモンキー、クジラ、ゾウ)
では、人間の言語の最大の特徴は何か。
それは虚構(現実には存在しないもの)について語る能力である。この能力のために、人は万物の霊長となった。ゆえに、この能力は人間として根幹部分である。
虚構──といっても嘘やデマという類のものではない。具体的には、宗教、国民主義やイデオロギーといったものである。これらは皆、実態のない「神話」である。「神話」を紡ぐ能力こそ、人間の根幹である。「神話」を前にしたとき、人間たちは赤の他人であっても恐るべき効率で共同作業を行うこととなる。
神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。アリやミツバチも大勢でいっしょに働けるが、彼らのやり方は融通が利かず、近親者としかうまくいかない。…(中略)…。ところがサピエンスは、無数の赤の他人と著しく柔軟な形で協力できる。『サピエンス全史(上)』p40
近代国家に見られる「虚構」(「神話」)の最たるものがナショナリズムであろう。この「神話」のために、幾人もの見知らぬ赤の他人が恐るべき効率で協働し、他の生物にはなしえぬ生産を行い、そして破壊した。ナショナリズムの起源と正体について、『想像の共同体』において見事に描かれている。それは、実態ではなく、架空のものであり、近代になって形成されたものである。
人間は「共通の神話」によって能力を十二分に発揮し、他の生物を圧倒してきた。これこそが人間の武器であり、生物としての根幹である。
ゆえに、「共通の神話」に身を委ねることができない個体は淘汰されてきたし、これからもそうなるだろう。神話に身を委ねることのできない人間は、牙をぬかれた猛獣や翼をもがれた鳥に等しい。
これは現代になっても変わっていない。
つまり、その集団内で信じられている神話に歯向かう個体は、これからも行き辛い世の中であるということだ。こういう個体は、人間としての根幹部分の能力を脅かす存在なのだから。
神話の内容は、実際馬鹿らしいものだったりする。ヘンリー・タジュフェルの実験によれば、「赤色が好きな集団」くらいのものであっても、共通項ごあれば、ある種の身内びいきが発生するとのことだ。(馬鹿らしい!)
だから、会社において、馬鹿らしいなという習慣があっても、それが会社の「神話」になっているのであれば大人しく従うのが吉である。
どうしても不条理だという思いが拭い去れないのであれば、「ああ、これは神話だかれ仕方ないな」とやや冷めて目線で眺めながらも、表面上は従うしかあるまい。それが人間の生物的宿命なのだから。
借金玉氏の記事は、この構造を、平易な言葉でしかも面白く説明している。
会社や組織というのは一種の部族です。トライブです。そこにはそれぞれの文化があり、風習があります。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
- 作者: ベネディクト・アンダーソン,白石隆白石さや
- 出版社/メーカー: 書籍工房早山
- 発売日: 2007/07/31
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