俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

リスクをとらねば逆に追い込まれる。

仕事でも人生でも、ノーリスクを旨としていてはジリ貧になるばかりである。麻雀でも、ベタオリしていれば振り込みこそ回避できるが、その先にあるのはツモられ貧乏だ。

 

だから、然るべきときには、ある程度のリスクを承知で勝負に出なければならない。僅かなリスクから逃げてばかりいては、そのうちとんでもない状況に追い込まれ、いよいよ分の悪い勝負に挑まざるを得なくなる。

計画から外れても上手く行く時は上手くいく。

失敗と成功は紙一重であり、そこに至るプロセスは表裏一体である。

 

ミッドウェー海戦における米空母攻撃隊のめざましい成果は、必ずしも当初に予定されたシナリオどおりの作戦行動によってもたらされたものではない。

 

「予想外の出来事にも臨機応変に対応した結果、米国に勝利が転がったのだ」ということも言えるだろうが、しかし、こんなことは後から振り返ればこそ「臨機応変」といえるのであって、もし失敗していれば「右往左往」と表現されていたことだろう。

 

結果として効果的な波状攻撃に繋がった攻撃隊・爆撃隊発艦を巡るスプルーアンス第16任務部隊司令官の0307から0428の意思決定についてなど、勝利したから「果敢な意思決定」なのであって、敗北していれば「意思決定の混乱」となっていただろう(日本海軍における兵装転換のドタバタがそう評されているが如く)。

 

何が幸運に繋がっているかわからないものであるから、予定通りにことが進まないからとて投げやりになってはいけない。小さな失敗や低迷は、後の大勝の布石かもしれない。

 

評価は後から、然るべきときに下される。いまは、一生懸命やるしかない。

安牌づくり。

営業成績は、ある一定期間で査定される。たとえば、「1年で10件」というノルマを課されたならば、1年で10件いこうが15件いこうが、査定上、大きな差はない。(10件いくか、いかないかが決定的に重要なのだ)

 

だから、その期間内で15件いきそうならば、(古典的な手であるが)、調整だけしておいて、実際の調印は次期に回したりする。いわば「安牌」を作っておく。

 

自分はこれが極端に苦手で、ついつい嬉しさからクロージングまで突っ走ってしまう。おそらくは今期、20件くらいはいける勢いだが、これは賢いやり方ではない。来期に向けて、ナンボか安牌を作っておくべきだったのだ。事実、来期は酷いことになるだろう。なにせ安牌をつくらず、むしろ先食いしたようなものだ。

 

今期のノルマしか考えず、焦りすぎた結果が裏目に出た。

仕事上の地雷のことは忘れよ。

将来のことは誰にもわからない。神でないかぎりは担保などできない。確約などできない。突き詰めれば不確実なことばかりだし、どうなることかわからないことしかない。

 

仕事上で埋め込んだ地雷のことで不安になる気持ちはわかる。しかし、地雷が炸裂するまでずっと不安がっているつもりか?そんな馬鹿なことはない。やれることをやったら、あとはすっぱりと忘れよ。

 

それが正しいことなのかという問いはあろう。けれども、皆、究極の不安に対して日々目を背けて生きているではないか。死んだらどうなるのか、という究極も疑問に対して。

 

だから、仕事上の、たかが数億の損賠をされるかどうか、などという不安など忘れてしまうがよい。忘れてしまって、当面の目標に邁進するべし。それに尽きる。

可能な限り小細工よりも正直に。

商談は駆け引きだからバカ正直では話にならない。策を弄したり小細工を用いたりすることも必要。

 

しかし、それらは最小限に留めるべきであって、正直にストレート勝負できるならば、できる限りそうするべきである。少なくとも「小細工を用いるか、正直に行くか」で迷った時は、後者を選択すべき。

 

幸運の女神は賢しらな狐を好まない。

 

今回の商談も、正直ベースの方針をとったことが吉とでた。まだクローズには至っていないが、遠からず調印に至る見込みだ。

悪事を回避できたという幸運はなかなか認識できない。

良いことに巡り合うことだけが幸運だけではない。悪いことを回避することも幸運の一つである。前者は認識しやすいが後者は認識できない。

 

今日は契約をクローズするという幸運には恵まれなかったかもしれない。けれども、大過なく一日を過ごすことができたというのはこれ間違いなく幸運に恵まれたからである。

 

幼い娘が無事に育っているのも幸運以外の何者でもない。

 

悪事を回避できているというのは見えにくいけれども大変な幸運である。

 

「起こらなかった歴史に目を向ける」とは名言である。ナシム・タレブであったか。

 

出来の悪い部下をもったと嘆くことは。

「出来の悪い部下を持った」「部下の動きが悪い」などと言って嘆いたり、感情的に部下本人にあたったりすることほど愚かしいことはない。

 

これは麻雀に喩えるならば配牌が少々悪いからと言って嘆いたり、怒ったりするようなものである。

 

配牌が悪くても、周囲にそれを悟られることなく手順を間違えずに打っていれば、思わぬ大物手に化けることもある。無論ゴミ手で終わることもある。すべては幸運の女神次第である。ひとつ言えるのは配牌が悪いからと投げやりになったり、怒りを顕にして周囲にそれを悟られては、勝てるものも勝てないということ。「怒る」「投げやりになる」「やつあたりする」これらは幸運の女神の機嫌を損ねる行為である。

 

牌効率を考えて打っていくのか、大胆な勝負に出るのか、いずれにせよ楽しげに運命にコミットする者が彼女を振り向かせることができる。

 

話を戻すと、人事権が付与されていない限り、どのような部下が自分に配属されるかということは自助努力ではなんともできない部分であり、それらは幸運の女神の範疇である。ならば、幸運の女神の機嫌を損ねるようなことをするべきではない!