俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

時が解決する。

仕事上の問題点、トラブルや心配事は、時間が解決することも多い。

 

そういう時に大事なのは、余計なことをしないこと。心配のあまり、しなくてもいいことをして、事態を悪化させるというのはよくあること。

 

やれることをやったら、後は人事を尽くして天命を待つ、これが大事。

 

あるいは、いまやってもどうしようもない、という状況のときには、何もしないのが大事。馬鹿の考え休むに似たり。状況や環境が整っていないにも関わらず、焦るばかりに余計なことをするのは馬鹿である。

 

じっと好機を待つ。焦ってはいけない。辛抱強く幸運の女神が微笑むタイミングを待つのである。

 

順風満帆に見えていても。

順風満帆の人生に見えていても、人知れず悩みというものは持っているものだ。

 

特に、子どもや家族のこと。

 

障がいを抱えていたり、いい歳になっても働かずに実家で引きこもっていたり。色々ある。

 

仕事がバリバリできる同僚や優秀な旧友と飲んだおり、ふとそのようなことを漏らされると、ひどく混乱してしまう。

 

「実は子どもが……」

「そうだったのか……」

 

そのようなことが最近何件か続いている。

 

「実は子どもが」。そのように言ってくれるということはある程度その人から信頼されているからなのだろうが、そういう時にどのような反応が適切なのか、自分には判断できない。

 

慰めるべきか、幸せのかたちは多元的であるという話をするべきか、そもそもその話を掘り下げて聞くべきなのか。

 

いま考えると、もっとよく話を聞くべきだったと反省している。悩みを打ち明けるときに、人が求めているのはアドバイスや助言ではなく、静かに相槌を打って聞いてくれることであるという原則を思い出すべきであった。

 

混乱して、適切な対応ができなかったこと、後悔している。

 

傍から見て「何ひとつ不自由なかろう」と思うような人生を歩んでいる人とて、色々あるのだということ。そして勝手に「何ひとつ不自由なかろう」などと決めつけていると、いざ悩みや弱みを打ち明けられたときに、適切な対応がとれないこと。反省したい。

 

 

 

教科書頼みでもいけないが。

教科書とかマニュアルの類は、迷った時ときこそ役に立つ。

 

好調なときは気の赴くまま仕事をしてれば成果があがる。新人社員でもないのに、いつまでたってもマニュアル頼みでは能力を疑われてしまう。

 

しかし、スランプに陥ったときは。

 

そういうときは「今更アホらしいな」と思わずに、基本に忠実に行動することが大事。

 

自分のやり方に固執せずに、もう一度頭をサラにして教科書通りやってみるしかない。

 

 

予想外を想定しておくこと。

これは安牌だと思っていた案件が契約に至らなかったり、これは難航すると思っていた案件がすんなりと契約できたりする。

 

事前の予想・計画は、良くも悪くも外れるものだ。だから、安牌を何件か取れなかったからと言って気落ちする必要はない。それは想定内である。

 

その埋め合わせとして必ずといって良いほど予想外にラッキーなイベントが発生するから。

 

恐るべきは一時の不運に気力が萎えてしまって前に進めなくなること。これほど愚かなことはない。

 

 

 

 

待つ勇気。

テキパキと仕事を進めるのは大事だが、しかし、商談においては相手に考えさせる時間も必要。

 

こちらの作業(提案書の作成や契約条件の社内調整)は神速で行うのがよいが、その一方で、顧客に提案をした後については、しばらく時間をおくことこそ重要。

 

それを功を焦るあまりに、十分な時間もとらずに「先日の提案、前向きに考えて頂けましたでしょうか?」と催促したり、また顧客から何も求められないうちに「もう少し好条件を用意しましたので、ご決断お願いします」と利幅を下げることは愚の骨頂。

 

こちらが急いでいるときほど、相手に考えさせる時間を確保するということをよくよく意識する必要がある。

 

待てば海路の日和あり。

泣き言、というカテゴリ。

このブログは自戒のために思考をまとめる場所として活用してきた。しかし最近は仕事が不調のため思索もままならず、何かを書きかけても泣き言で終わることが多かった。そして結局、うまく自戒とか教訓に繋げることができずに文章を削除するという繰り返し。

 

ならば、「泣き言」というカテゴリを作ってみようと思う。このカテゴリは、後から自分が読んでも全く役に立たない。無益の極み。いわんや他人が読んでも目の毒。

 

にもかかわらず、そんな文章をネットにあげるのは、泣き言を文章にして、誰かの目に触れる場に置くというのはそれだけでストレス解消になると思うから。

 

では、さっそく泣き言を書き連ねる。

 

(相手のあることとはいえ)営業の成績が思わしくない。大型案件を逃したり、想定外の出来事に見舞われたり、とにかく事前に思い描いていたストーリーとは全然真逆、裏目裏目に出る。

 

フォローがいまいちで顧客に叱られたり、大口の機嫌を損ねて支店全体の数字に影響が及びそうだったり。

 

ああ、つらいなぁ。

 

 

失敗に悩んでいたかと思えば、今は成功しないことを悩んでいる。

 

もう少しで成約に至りそうな案件を逃した。大型案件であった。惜しいことをした。「もう少し入念に準備していれば」とか「あと僅か運がこちらに向いていれば」などとあれこれ振り返ってしまう。頭では過ぎたこと、とわかっていながらも。

 

それにしても、つい先日まで「営業成績はほどほどでいい。大きな失敗しなければいい。どうか仕事で抱えた爆弾が破裂しないでくれ」というようなことで悩んでいたのに、今日は大型案件の契約ができなかったことについて悩んでいる。

 

大過なくその日を凌げれば十分だったのではないのか……。

 

これは「平均年収くらいあれば、私は幸せに暮らせるのに」という人が、実際に平均年収を稼ぐようになった途端「いや、やっぱりもう少しお金が欲しい」などと言い出す様に似ている。

 

向上心や欲を出すことは悪いことではないと思うが、それにしても、満足の基準がかくも容易く変動するというのは自分でも驚く。