俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

泣き言、というカテゴリ。

このブログは自戒のために思考をまとめる場所として活用してきた。しかし最近は仕事が不調のため思索もままならず、何かを書きかけても泣き言で終わることが多かった。そして結局、うまく自戒とか教訓に繋げることができずに文章を削除するという繰り返し。

 

ならば、「泣き言」というカテゴリを作ってみようと思う。このカテゴリは、後から自分が読んでも全く役に立たない。無益の極み。いわんや他人が読んでも目の毒。

 

にもかかわらず、そんな文章をネットにあげるのは、泣き言を文章にして、誰かの目に触れる場に置くというのはそれだけでストレス解消になると思うから。

 

では、さっそく泣き言を書き連ねる。

 

(相手のあることとはいえ)営業の成績が思わしくない。大型案件を逃したり、想定外の出来事に見舞われたり、とにかく事前に思い描いていたストーリーとは全然真逆、裏目裏目に出る。

 

フォローがいまいちで顧客に叱られたり、大口の機嫌を損ねて支店全体の数字に影響が及びそうだったり。

 

ああ、つらいなぁ。

 

 

失敗に悩んでいたかと思えば、今は成功しないことを悩んでいる。

 

もう少しで成約に至りそうな案件を逃した。大型案件であった。惜しいことをした。「もう少し入念に準備していれば」とか「あと僅か運がこちらに向いていれば」などとあれこれ振り返ってしまう。頭では過ぎたこと、とわかっていながらも。

 

それにしても、つい先日まで「営業成績はほどほどでいい。大きな失敗しなければいい。どうか仕事で抱えた爆弾が破裂しないでくれ」というようなことで悩んでいたのに、今日は大型案件の契約ができなかったことについて悩んでいる。

 

大過なくその日を凌げれば十分だったのではないのか……。

 

これは「平均年収くらいあれば、私は幸せに暮らせるのに」という人が、実際に平均年収を稼ぐようになった途端「いや、やっぱりもう少しお金が欲しい」などと言い出す様に似ている。

 

向上心や欲を出すことは悪いことではないと思うが、それにしても、満足の基準がかくも容易く変動するというのは自分でも驚く。

 

自宅と職場は適度に離れているのがよい。

この間読んだ本に「物理的な距離と精神的な距離は比例する」というようなことが書かれていた。

 

これはまさにその通りで、毎日通勤していて思うことだが、職場から遠ざかるにつれて、気持ちも仕事から離れていくのが実感できる。実に快適な瞬間である。

 

だから自宅と職場は適度に離れているのがよい。

 

徒歩通勤圏内とかだと、常に仕事のことが頭をよぎる気がするし、休日にもつい職場に足を運んでしまいそうな気がする。

生き物は食事と排泄の世話をする者に懐く。

 根拠があるわけではない。何種類かの生き物を飼って得た経験則。

 

これは育児にも当てはまると思う。

 

だから、イクメンを自称しながら大便の際のオムツ交換を拒否するという新聞記事を読んで、「そこが一番肝心なところであるのに」と思ってしまった。

 

(もちろん、かねがね言っているように、育児においてはどこまで頑張っても妻からの評価を期待してはならない。)

 

【参考】

自己満イクメン、妻は興ざめで離婚 欠けていたのは…(朝日新聞デジタル2017年6月5日付け)

 

 

仕事で爆弾を抱えるということ。

仕事をしてれば「爆弾」はつきものだ。

 

halberも、現在数個やばい爆弾を抱えている。

(そのうちのひとつは、顧客に事前に提案した条件と、実際に交わした契約書面の内容が異なっていたという事実が発覚。契約締結から時間が過ぎており、リカバリのためには相手方の善意に頼るしかない、下手をすれば損害賠償請求ものという状況。)

 

爆弾を抱えているとどうしたって気が滅入る。そんなとき、まとめサイトの以下の記事を読んですこぶる勇気づけられた。

 

これは繰り返し読む価値がある。

 

仕事で爆弾を大量に抱えてる馬鹿おるか (MONEYNEWS2ch)

 

14: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/03/09(木) 22:12:23.43 id:jPUksTGnr.net

周りからの信頼もう0ンゴねぇ

 

 

34: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/03/09(木) 22:16:45.86 id:sHUEekhVp.net

>>14 

そんなもんいちいち気にしとったら仕事なんてやっとれんぞ

 

 

15: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/03/09(木) 22:12:36.14 id:uEl/W8T1p.net

むしろ爆弾できんような仕事しとる奴なんてたいした職業じゃないやろ 

誰でも爆弾は抱えるもんや

 

失敗が続いた時に悩んだり落ち込んだりすることについて

ミスや失敗が続くと気分が滅入る。気分が滅入ると、悩んだり自己嫌悪に陥ったりして、ついつい行動が鈍くなりがちだ。

 

しかしそんなときこそ、次の成功を掴むべく、あるいは失敗をリカバリするべく、積極的に行動するべきだと思う。

 

思い悩んだり、自己嫌悪しとり、弁解したり、卑下したりする暇があれば、とりあえず行動するべき。

 

思い悩むとか落ち込むとか言うのは状況を改善するうえでなんの足しにもならないばかりか、それは結局のところ自己愛の裏返しである。

 

「自分を大事にして欲しい」「大目に見て欲しい」「嫌われたくない」などという妙な欲があるから、思い悩んだり落ち込んだりする。

 

だから、失敗が続いたときは世間の評判などさておいといて、とりあえず、状況を改善するべく行動することだ。

 

 

 

 

 

決断した過去の自分を責めるなかれ。

ウォール街で活躍したトレーダー、ナシ厶・タレブは著書『まぐれ』において、世間で考えられている以上に成功は偶然によるところが大きい、と説いた。

 

ある方針を決断した場合に、それが成功するか否かは偶然にも左右される。ゆえに、失敗したからといって、その決断を下した自分を悔いる必要は全く無い。決断の内容自体は合理的であったけれども、単に幸運の女神に嫌わわれただけということもある。

 

これは開き直りでもなんでもない。不確実性を伴う行為をするときには、幸運や偶然の要素というのは付き物である。

 

にも関わらず、「お前の決断は、諸々のデータから照らし合わせると不合理なものだった。だから失敗したのだ」とか「もう少しよく考えて決断を下せば、このような結果は避けられたのではないか」とか「準備不足だったのではないか」などという批判をしてくる頓珍漢がいる。

 

全くもって失当だ。

 

後知恵バイアスなどという言葉を持ち出すまでもなく、現在から過去を振り返ればなんだって言える。

 

どの程度リスクをとるか、そのリスクに見合うリターンはあるのか、それはもちろん、最善を尽くして考え尽くすべきだ。

 

けれども、どれほど理詰めで考えても、不確実性は排除できない。考えれば考えるほど「想定されるリスク」が積み上がっていき、結果、「何もしない」などという方向に流れがち。

 

そうして、「ビュリダンのロバ」よろしく致命的な状態に陥ってしまう。

 

これこそが恐るべき事態だ。

 

(但し「決断しないという決断」を下すのと、「何も決められないまま時機を逸する」というのは月とスッポンである)

 

どんなに最善を尽くしても、人間には限界がある。どれほど優秀な人間でも、未来を完全に予見することはできない。いま成功している人間でも、明日には大失敗するかもしれない。

 

たしかに個々人によって才能の差はある。未来を予測する能力に長けた者はいるであろう。しかし、神ではなく人間である以上、どれほど賢くても・どれほど要領がよくても、未来を完全に予見することは不可能。

 

(金融工学ノーベル経済学賞をとった「優秀で」「賢い」人物が経営していたヘッジファンドであっても破綻する。)

 

だから、過去のその時点において、自分の能力の及ぶ限りで考えた末に下した決断を、後から振り返って責めるべきではない。少なくとも、自分で責めるべきではない。(その批判は幸運の女神を知らないマヌケ連中にでも任せておけ。)