俗物による自戒ノート。

家庭と仕事の反省点

曰く「子育てを社会化する流れ」について。

匿名ブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」も社会現象になった。子育て中の人々らから「保育園落ちたの私だ」と呼応する意見が多く表明されたのだ。子育てを家族に担わせる志向に、今、子育てを社会化する流れが対峙(たいじ)している。

(回顧2016)論壇 行き詰まる社会、足元を照らす:朝日新聞デジタル

 

子育てを家族だけが負担するのは重荷である。では子育ては社会化されるべきものなのかというと、少なくとも自分はそう考えていない。経済的状況さえ許すならば、自分の子が乳幼児期の間は、自分または肉親がメインで育児したいと思う。妻も同様の意見である。(これは少数派なのかもしれないが。)

 

しかし、朝日新聞が言うように世の論調として子育ての社会化こそが善とされる傾向にあるのは肌で感じているところである。配偶者控除や配偶者手当の縮小の議論など政府もそれを後押ししている。これはなぜなんだろうと考えると、女性の社会進出という進歩主義的な観点に加えて、育休の負担を回避しさらには労働力を増やしたい産業界の要請も見え隠れしているような気がする。育児をサービス業とすることでGDPも増えるから政府としても都合がよいのかもしれない。(TPPに対する論調でもそうだが、朝日新聞進歩主義的な一面がある一方で、新自由主義的な一面も持ち合わせている。これが少し不思議だ。)

 

もっとも、育児に限らずだが、家族の面倒を必ず家族が見なければならない、という意見もまた同様に好きにはなれない。認知症の祖母が、なかなか施設に入れず、親族が疲弊し切ってしまった経験から。また、ろくでなしの親族が、扶養義務を盾に金銭を要求してきた経験から。

名著・格言を小人から伝え聞くことについて。

どんな名著でも、つまらない人物に薦められると読む気をなくす。どんな格言でも、つまらない人物から座右の銘にしていると紹介されると色褪せる。

 

ただし、薦められたり前に読了していたり、紹介される前に既に知っていた場合を除く。

だから、名著や名言は自分から探しにいくのがいい

心配の種は尽きることがない。

我が子に対する心配は尽きることがない。まず妊娠するかどうかで心配する。妊娠できても、つぎは無事出産できるかどうかで。出産しても、つぎは心身健康であるかどうかで。心身健康であっても、病気などしないかで心配する。

 

幼児期が過ぎても心配の種は尽きない。事故にはあわないか。学校でいじめにあわないか。ちゃんと勉強についていけるのか。

 

それなりに大きくなっても心配の種は尽きない。就職できるのか、変な奴と結婚することはないか、金銭トラブルに巻き込まれることはないか。

 

そしていつまでたっても病気、事故、犯罪被害者になる可能性なども心配だ。

 

このように心配事は尽きないので、ある程度は達観した姿勢で人生と向き合わねばならない。そうなったらそうなったで次善の策を模索し、付与された条件の下で幸福を最大化しようではないかというくらいの気持ちで。

女性の社会進出と育児について

経済的・社会的に余裕があるのならば(=共働き夫婦でないのであれば、男女ともに育休取得が許容される世の中なのであれば)、自分の子どもは、せめて3歳か4歳くらいまでは、自分の(または配偶者の)手で育てたいと思う。残念ながら現実はそうではないので1歳頃から保育園に預ける予定である。

 

保育園に関して「子どもの社会性を育む」「親の孤育を防ぐ」というメリットから保育園義務化論などもあるようだが、やはり血を分けた子どもなのであるから、他人に任せず自分の手で育てたいという気持ちが強い。

 

しかし、そのような気持ちに対してネガティブな評価がなされることが多い。ひとつの要因として、女性の社会進出というポリティカルコレクトと相反するところがあるからだろうと推測する。育休延長などについても、そのような観点からの批判があるらしい。

 

けれども、そのような対立が生じるのは、女性が育児をするという前提があるからだ。別にそうあるべき必要はない(授乳の利便などはさておくとして)。男性が育休をとって、女性が大黒柱として働く、そういった形ならば(保育園に預けず)、家庭で育児をすることと女性の社会進出することとは対立しない。

 

(もっとも、現実的には男女間の賃金格差や社会的な認識が埋まらない限りは、「専業主夫」というのは絵に描いた餅に過ぎないが。)

 

「育児と仕事を両立させたい」と願う人が各種公的サービスを利用できるのと同じように、「育児に専念したい」と願う人にも不公平にならないようにすべきなのではないか。なぜか後者は軽視されているように思えてならない。

割り切りが重要

世の中には難解すぎることや不条理なことが多い。仕事のことであれ家庭のことであれ、いくら悩んだり考え抜いたりしても、うまく行かない時はうまく行かないものだ。

 

だから、できる限り努力した後はどこかの時点で割り切って天に任せるしかない。

 

法然上人の教えに従い南無阿弥陀仏と唱えるもよし、イエスの「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章34節)という言葉を思い出すもよし。

 

人事を尽くして天命を待つ、というのもよくできた言葉である。

賢い・馬鹿に年齢は関係ない。

年下の後輩でも賢い奴は賢い。そういう人物の仕事ぶりは見ていてこちらも学ぶところ大である。年長者の先輩でも馬鹿な奴は馬鹿だ。そういう馬鹿者が先輩面して偉そうに説教を垂れてきても全く心に響かない。

 

賢い・馬鹿の区別に年齢、すなわち生まれた時代は関係ない。これは既に故人となった人物についてもあてはまる。昔の言う人のことだから的を射ているとか、反対に時代遅れで全く役に立たないということはない。過去に生きた人であっても、賢い人の言ったこと、書いたことは勉強になることが多い。

 

ゆえに、古文の心得はあった方がよい。(もっとも、高校で必修にまでする必要があるかどうかは全く別の議論である。個人的には手ほどき程度はした方がいいと思う。)